無駄だらけの現代授業を最適化しよう
もっかい言うけど、授業っていうのはノートを写すもんじゃない、もっとエキサイティングな知的体験のことを言うんだと思う。
http://d.hatena.ne.jp/lonlon2007/20080605/1212596527
パワーポイントを使っていない先生なんかは、この辺を読んでおくといいでしょう。
あと思うのは黒板に板書する時間の無駄さである。今の授業は先生が黒板を更新するのに5分使うが、プロジェクタなら0.2秒で出来る。色だって黒板ならせいぜい8色だが、プロジェクタなら軽く5色じゃなくて5桁は行く。画像だって表示できるし、動画だって見られる。綺麗に板書をノートにうつすのが授業じゃない。やるとしても全員で授業中に分業して、Wikiのようなものに要点だけまとめたり、関連URLもいっぱい載せた完全版Wikiとかを作ったりすればいい。
後半の「wikiを使おう」、っていうのも、わたしゃいろいろな現場でいつも言っているし、このブログでも書いているんですが(最後にリストを挙げます)、けっこう先進的なはずの機関でさえ「wikiって何?」という世界なのでどうしようもない。途上国の日本語教師なら別ですが、パワーポイントも使えず、wikiすら知らない教育関係者は、学習者が成長する可能性を大きく奪ってしまっているのだという現実を直視すべきです。
日本の流行とか、最新のアニメやゲームについては、先生よりも学習者の方が詳しいというのもありでしょう。しかし、こういう教育に関する技術的な可能性に関してまで、こんな風に高校生に指摘されちゃっていいんでしょうか。
さて、この高校生のエントリーに対して、たとえばこんなトラックバックがあります。
id:lonlon2007さんの理想とする授業は、それぞれの授業科目(英語なら英語、歴史なら歴史)の基礎知識(高校で学習する範囲)を、生徒全員がかなりの高いレベルで身に付けている必要があると思います。
たとえば、英語の授業の場合。教師の英文解釈と違う解釈を提示したり、議論する、双方向的な授業が成り立つためには、その前提として、文法力・英文解釈力・論理力がなければなりません。つまり、id:lonlon2007の求める授業を実現するには、そのためのしっかりした土台が必要なのではないでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/showcoats/20080606/1212761984
語学教育を専門にしていて現在もベトナム語を学習中の人間から言うと、そんなことはありません。
たとえば、教員が文法を説明する前に、例文をいくつも提示し、文法的に許容できるものと間違いとされるものを示す。学習者はそこにある規則性を議論して自ら導き出す。
こういうことは少なくとも初級後半の段階から可能です。中学レベルでは微妙ですが、高校英語といえば中級レベルですから、十分に授業は成り立つでしょう。
showcoatsさんは「まず教師が自らの英文解釈を提示し、学習者が反応する」という前提で考えているようですが、まさにそれこそがlonlon2007氏の言う「受け身の授業」なのではないでしょうか。
上記に関連するものとしては、こんなトラックバックもあります。
チャットに目がいってしまうと先生の話が頭に入らなくなるし、みんなが先生の方を見ているとたぶんチャットがもりあがらない。
http://d.hatena.ne.jp/ymrl/20080607/1212773682
この件は、おそらく先生の役割についての筆者の認識が冒頭の高校生とは(私とも)違うのでしょう。従来の正解コピー型の授業ではそういう問題は起きるでしょうが、学生同士で正解を追求していくタイプの授業では、先生の話よりも学生同士の議論が大切ですから、こういう問題は起きないはずです。先生はあくまでもモデレーターであり、議論の邪魔にはなりません。
同じような誤読は小飼弾氏もしていますね。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51061671.html
インプットだけの正解コピー型の授業であれば小飼氏の批判もあり得るのですが、冒頭の高校生lonlon2007氏が補足しているように、そんな古いタイプの授業の話なんかしていなかったわけです。ここが理解できないと、単純なパワーポイント批判に陥りやすい。パワーポイントを見せながら先生がしゃべりっぱなしの授業なんて、ずっと板書し続ける授業と全く同じ。そんなところに、彼の言う「エキサイティングな知的体験」なんてありえません。
チャットでも生の議論でもいいけど、そういう活動こそが授業の中心になるのであって、パワーポイントはその前段、話題に関する基礎的な情報提供などでしか教師は使わないわけです。学習者がプレゼンすることはむしろ奨励すべきですが。
「ネットにつないだら学生が遊ぶよ」なんていう批判(こことか)も、明らかに彼の批判している受け身の授業をそのまま前提にしていますね。遊ぶ暇があるような授業はエキサイティングな知的体験ではありません。
その意味で、「雑種路線で行こう」さんの
本当の授業って対話じゃなかろうか。は本質をついていますね。
http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20080605/lecture
それから、次の部分。
例えば先生がちょっとした疑問を全員に投げかけたとする。『これ、どう思う?』とか、『こういうものを何と言うでしょう?』とか。よくある光景だ。でも、今の授業ではあまりそういうちょいとした投げかけに対して返答する人はいない。ただ、チャットなら一気にレスポンスがくるだろう。後からログで早く正しい答えを言った人に対して評価を与える!とかそういうことをすれば常に早押しクイズ状態である。これはエキサイティングだ。システムさえ整備すればアンケートでの投票などもすぐ出来るだろう。
この部分に関して、コメント欄で「チャットでなく顔を見せて返答できるようにお前が変われ」などと批判している人もいますが、それも違う。教育の現場の人間として言わせてもらうと、発言しにくい雰囲気があるなら、それは明らかに学習者の責任ではなく、教師の責任です。教育のユーザー側であるlonlon2007氏を責めるのは、明らかにお門違い。
といっても、こういうのはまだ批判としてはまともで、中にはこんなコメントもあります。
>>lonlon
手を上げて発言できない奴がネットなら発言できる?
そういう引篭もりニート第一候補な野郎を消すのが高校に求められることなんだよ。
わかるか?そういう奴はいずれ税金で食わせてもらうだけの社会のお荷物。
なあ、おまえ、先生に指されてからニヘラニヘラ笑ってどうにかプライドを
保ってるタイプだろ?精一杯、上から目線の笑いのつもりだろうが、
みっともないだけだ。
え?もう指されもしない。不登校になったら大変だから?そうだな。w
悔しかったら、月曜日の授業で、自分から手を上げて、大きな声で発言してみろ。な。
それができて、はじめて、「普通の人」だ。
彼がブログをやる意味の一つに、こういう悪意などにさらされて、それに対する忍耐力を身につけることもあるのではないかな、と思いました(梅田望夫さんも似たようなことを書いていますね)。上記の書き込みを匿名でする人と、自分の考えを自分のブログで表明するlonlon2007氏とでは、どちらが人間として器が大きいかは、誰の目にも明らかでしょう。
とにかく、教育関係者はこのエントリーと、それに対する批判、トラックバックなど、一通りの議論は目を通しておいた方がいいです。
本ブログ内のwikiの可能性に言及している記事
むらログ: wikiこそ「ウェブ2.0と日本語教育」の本命
http://mongolia.seesaa.net/article/34537709.html
むらログ: wikiは授業の改善にも有効!
http://mongolia.seesaa.net/article/37053034.html
むらログ: wikiはオンライン添削にも役立つ
http://mongolia.seesaa.net/article/35129965.html
むらログ: 研修の報告会はwikiというシステムを使うといい
http://mongolia.seesaa.net/article/76741999.html
むらログ: 映画と日本語学習とweb2.0
http://mongolia.seesaa.net/article/38672574.html
むらログ: ウィクショナリー
http://mongolia.seesaa.net/article/36711299.html
その他パワーポイントに関する記事
村上吉文「プレゼンテーションソフトの日本語教育への応用について」2001
http://members.at.infoseek.co.jp/MURAKAMI_Yoshifumi/Power_Point.htm
前の記事に関連した記事を更新いたしましたので、ぜひご一読いただければ幸いです。
こちらで議論されてる場が学校教育なのか、予備校などを含んだ広義の教育現場なのか知りえていませんが、、、)
昨今社会に出てきている若者は、総じて「知識」「学力」はそこそこ備えてはいますが、いわゆる「考える力」「問題解決能力」を兼ね備えた人が圧倒的に少ないという事実があります。また、逞しさにも欠ける人が多い。便利なものを過剰に使いすぎ、ムダや失敗を経験して力に変える事を体験していない事実が大きく影響していると直視しています。
例えばパワポにちても、綺麗に見せるテクニックはあっても、内容や訴求力に欠ける。本当に本質を掴んでいる人は、たとえ32ポイントのテキストであっても根拠が伝わり、迫力もある。そういう人間を多く輩出する教育ではいけない。
もちろん、そういう彼らを正しく導くには、教師自身がこれらを正しく強く把握できていて、効率のみ重視の教育で若者が本当の力を蓄積することができないことを納得させる人間力も兼ね備えていないといけないから、大変なご苦労です。
ここで対象にされている教育現場が、受験テクニックの場であるなら、それでも良いと思いますが、とかく若者は「それで良い」と誤解しがちなのが気になります。
個人的には「教育はエキサイティングな知的経験」とのたまう様な若者は教育のなんたるかを知りえない若輩だから哀しむべきことだと思います。 能動的になれない人達こそきっちりと思想を教育しないといけない。
繰り返しになりますが、その様な頭でっかちの若者を正しく導く教育者の皆さん、頑張ってください。かげながら応援しています。
突然の訪問でのコメントをお許し下さい。
ネガティブなコメントはスルーするのが私の主義なのですが、もしかしたら多少お役に立てるかもしれないと思いまして。
コメントから、若い世代に対する不満がかなりたまっているように見受けられました。
まずお伝えしたいことは、肩書きで話すのはやめた方がいいということです(たとえば、ひでさんのコメントの最初の文を見てください)。伝えたいメッセージがあるのなら、それをシンプルに伝えること。特にネットの世界では、肩書きから入るのはパワーポイントの乱用と同じで、内容に力がないからだと誤解される可能性があります。それでは届くものも届かなくなります。
それから、こういう表現。
「とかく若者は」「若者は、総じて」
どうしようもなく話の通じない人もいますが、部下を単なる機械の部品でなく、個である人間として話せば、ほとんどの人とは対話は可能だというのが、私の考えです。
しかし、それ以前にご自身のストレス管理。何だか行間からものすごく漂ってくる気配がありますよ。皮肉でなく、ご自愛くださるように祈っています。
1.パワーポイント等でポンポン進まれるとかなりの生徒はテンポについていけずに脱落します。(ここで想定しているのはただひたすらスライドを映して読み上げる授業だけではなく、まとめた要点をスライドを用いて解説しその後演習なり、グループに課題を課すなりの工夫をこらしたものも含めてます。)要は、これらの科目については冗長に板書をしながら解説を聞くという過程が理解にとっては重要であって要点をまとめてしまうこと自体が理解の妨げになるということです。必ず予習をしているなら話は違いますが、科目に対するモチベーションと習熟度の差は予習をしているという前提に授業を行うことを相当困難にします。また、残念なことに高校の数学物理の教科書は要点がまとまりすぎていて初学者が読んで理解できるようには書かれていません。(もちろん読める人は読めますし、副読本やインターネット等で補完するという方法は考えられますが。)
2.そもそも要点は教科書に載ってるいるのですから、これらの科目の板書はノートに写すようなものではないです。聞いていて疑問に思った点や気になった点をノートに書き込むのが正しいありかたであって、他人の計算メモ(板書)を写しても意味はないということは当たり前です。純粋に無駄な板書というものも確かに自分自身、相当見てはきましたが、「黒板写したってしょうがない」という点については板書を写すことを前提としていることがそもそもの誤りです。
3.習熟度の差、モチベーションの差があまりにも開きすぎていてなかなか生徒対先生、生徒対生徒の双方向でのコミュニケーションを用いて理解を深めていくというのは難しいように思います。できる人とできない人ではできる人がペアになればTAみたいな感じになってしまいそうですし。それはそれでTA役の人にも得るものはありますが高校の授業としてはちょっと違う気がします。しかし、それはまだ良い方でwikiの活用やグループワークではやる人とやらない人とで二分されてしまうことすら(その可能性の方が?)あります。
最後に一点。アクティブではないメンバーを切り捨ててもよくて、モチベーションがある人のみが高めあっていければいいという前提でしたら、高校の数学物理においても適用可能だと思います。
元、文系学生で最近高校の数学物理を独習したためどういう風に学んだら良いかということを下手の考えなりに結構考えていたのでつい長々と書き込んでしまいました。すいません。