2008年01月16日

泣いた赤鬼は何を訴えるのか。

先日、娘の幼稚園の発表会に行きました。
昔の発表会とは全然違うんだなあ、と思ったことの一つが、ナレーションやセリフや効果音や音楽が入ったCDを使っていることです。園児たちはせりふを覚えたりする必要はなく、それに合わせて踊ったりします。
人によっては「手抜き」とか「幼稚園児から始まる画一化」とか「もっと手作りの発表会を」などと思うかもしれませんが、私はむしろ日本語教材としてもいいのではないかなあ、と思って聴いていました。

価格などはまだ見ていないのですが、なにしろ内容が「泣いた赤鬼」とか、「三匹の子豚」とか、「眠りの森の美女」などばかりなので、学習者もよく知っているストーリーとか、日本の一般教養としての童話という視点でも、非常に優れているのではないかと思うのです。

何より、幼児でも理解できる語彙や文型なので、外国語としての日本語を学ぶ人たちにも敷居が低そうです。

さらに、声優の演技や音楽によって、理屈でなく感性に訴えかける部分が大きいこともメリットといえるでしょう。印象が強いほど忘れないものですからね。


(発表会で使われていたCDは多分これ)

ところで、「泣いた赤鬼」って深いですよねえ。ものによっては「何度見ても同じところで感動する」という種類のものもありますが、「泣いた赤鬼」は見るたびに違うところで考えさせられる気がします。

子供のときは青鬼の自己犠牲(友情の大切さ)とか、赤鬼の浅はかさ(ウソはだめ)に目が行っていた記憶があります。はじめて海外に出た頃は、人間による赤鬼への偏見を通して、異文化理解の大切さを訴えているようにも見えました。が、今回はむしろ「本当に異文化が理解しあうためには、大きな代償を払う覚悟が必要だ」というメッセージにも思えました。

この物語では、赤鬼は村の子供たちと遊べるようになった代わりに、古くからの友人であった青鬼を失ってしまったわけですよね。もちろん、青鬼は敵になったわけではありませんが、赤鬼が村の子供たちと遊び続ける限り、青鬼とは会えません。いつかはウソをついてまでも仲良くなりたかった赤鬼の気持ちも村人たちに分かってもらえるときが来るとは思いますが、それには時間が必要です。

日本語教師養成講座などの資料を見ていても、「異文化理解=美しいもの」というような方向ばかり強調されていますが、本当はエスニック料理に舌鼓を打ったり、鮮やかな民族衣装を身にまとってみたり、といった楽しいことよりも、ずっとずっと長く苦しい道のりを歩くのが異文化理解だと思います。もちろん、それでもその道を歩く価値はあると思っているからこそ私はこんな仕事をしているのですが、この道に入るときはそういう覚悟を持っていない人が多いでしょう。当時の私もそうでした。

ここで考えなくてはいけないことは、果たして赤鬼は、鬼だけで暮らすべきだったのだろうか、ということです。

赤鬼の動機を「自分だけが人間と友達になりたい」という利己的なものに限定すると、確かに彼は視野の狭い愚か者だったといえるでしょう。しかし、そこに「鬼に対する偏見をときたい」という普遍的な動機を見ることができれば、彼の行動は決して批判されるべきものだったとは思えません。もちろん、異文化理解に対する代償とかリスクに対して無知だったことは批判に値するとは思いますが、その批判は赤鬼だけでなく現代社会を生きるわれわれ自身に向けられていると思ってもいいのではないでしょうか。

追記
むらログ「お遊戯会CDのリスト(日本語教材に使えるかも)」
http://mongolia.seesaa.net/article/79400862.html
posted by 村上吉文 at 12:00 | Comment(20) | TrackBack(1) | 日記 | このエントリーをはてなブックマークに追加
この記事へのコメント
お久しぶりです^^こちらへの書き込みは初めてかも…
幼稚園のお遊戯会、可愛かったでしょうね^^
そうそう、CD使うよね〜。私も自分の子供の時にびっくりしました。
お遊戯会用、本の朗読などのCD、レンタルもあるんじゃないかなぁ?

で、『泣いた赤おに』ですが、私は子供のころ嫌いだった記憶があります。
なんか人間に腹が立ってね〜^^;
「異文化理解」への代償。。。なるほど。
「自分を理解してもらうための代償」ってことですね。だとしたら、人間の側はどうなんでしょう?・・・青鬼に怖がらされたのが代償かしら〜

深い話だったんですねぇ。
異文化理解。母国語と違う言語を学ぶ上で欠かせませんが、なかなか難しいですよね。
教わる側として、こちらの文化を理解してくださっている先生の方が内容が身につくような気がします。
教える人は大変だぁ。
で、違う言語を学んでいると「自分って日本語すらよくわかってないなぁ」と認識させられます。私もみどごんパパさんに日本語を習いたいわ〜
Posted by ぽよん at 2008年01月17日 00:54
お、ぽよんさん、いらっしゃいませー。

人間側の代償ですが、こういうとき、多数派よりも少数派(鬼)の方が代償が大きくなってしまうっていうことかもしれませんね。その分、多数派は少数派を深く理解しているわけじゃないし(青鬼も悪くないこととか)。

もっとジジイになったら、このお話がどんな風に見えるのか、ちょっと楽しみです。「ブログにあんな馬鹿なこと書いちゃって」とか思うんだろうなあ、きっと。

Posted by 管理人 at 2008年01月17日 03:48
子供たち、泣いてました?あの話で泣くのって大人じゃないですか?うちの子はなみだ目のわたしを見て「はぁ?」って顔してました。考えないから子供たちは異文化に対する敷居が低いのだといえなくもないかもしれないですね?
Posted by 沼田 at 2008年01月17日 11:51
おお、沼田さん、お久しぶりー!
というか、例のお達しのせいで、メールに返事できてなくて申し訳ないです。いやー、なんというか。

うちの子は衣装がえの途中で、確か、ないた赤鬼を見ていなかったんじゃないかなあ。というか、何かに感動して泣くという場面を見たことがないです。母よりも父親に似たのかもしれません。

そういえば沼田さんも「千と千尋の神隠し」というタイトルを聞いただけで、だあっと涙が出るんだとか?

Posted by 管理人 at 2008年01月17日 12:15

>ずっとずっと長く苦しい道のりを歩くのが異文化理解だと思います。

いいとこどりってできないし、光と影の両方を知り、理解しないことには理解したことにならないと私も思います。

>この道に入るときはそういう覚悟を持っていない人が多いでしょう。当時の私もそうでした。

モンゴルに留学しにきたり、日本語を教えにきたりしてすぐとんぼ返りする日本人も最近はちらほらいますね。それだけいろんな日本人がモンゴルに暮らすようになったということですけど。私も覚悟はしていませんでした。私の場合は当時たまたまボランティア日本語教師養成講座に通っていて、しかも大好きなモンゴルで働けるという話がすぐにきて、とんとん拍子に就職も自分の夢も叶ってしまいました。ですので、慣れないモンゴル生活も職場での人間関係や現場での仕事もカルチャーショックやトラブルの連続でした。ある人に愚痴をこぼしたら「じゃ、なんでモンゴルに日本語を教えに来たの」と言われてしまい、その時すごく落ち込んだのを記憶しています。なんでだろうと自問自答を繰り返していましたが、仕事やモンゴルでの生活に慣れるにつれ、自信がついていきました。今は今でまた別の問題にぶち当たっていますけど、でもそれもモンゴルの日本語教育に携わるものならではのものなんですよね。

「受け皿もないのに日本語教えてどうするんだ」とある人に言われてしまったことがあって、その時はうっと答えにつまってしまいましたが、今は答えることができます。「じゃ、受け皿も私、準備します!」と。そのために今年はいろんなことを計画しているのですが、私がそう思うようになれたのも、行動を起こそうと思ったのも、私に厳しい問いかけをしてくれた人がいるからなんですよね。ありがたいことです。

「泣いた赤鬼」はなかなかシュールな話ですけど、これは話の続きを考えたくなるお話ですね。私なら「村の人が赤鬼に涙のわけを聞いて、人間が鬼に偏見を持っていたこと、赤鬼も青鬼もいい鬼だったこと、二人が芝居を打ったことなどすべてを理解して、みんなで青鬼を探し出して、最後はみんなで仲良く暮らしました」という続編をつくりたいです。
Posted by shibarie at 2008年01月18日 18:43
赤鬼のために人肌脱いでくれた青鬼のために、今度は赤鬼が人肌脱ぐというストーリー展開もいいですね。がんばれ、赤鬼!
Posted by shibarie at 2008年01月18日 18:48
「受け皿もないのに」論は私も聞いたことがありますけど、別に強制して教えているわけでもないし、こちらが心配することなのかなあ、と今でも思っています。

受け皿は学習者数よりも少ない。だからみんな勉強するんですよね。

日本だって、NOVAに通っていた全員が英語をメシの種にでいるかと言ったらまず無理。

そもそも、学習者には頑張る人も頑張らない人もいるわけで、がんばりもしない人の数まで受け皿を用意する必要なんて、政策レベルだって必要ないと思うんですがね。

赤鬼のシリーズ化、おもしろそうですね! 聴解などでCDを勉強するのも含めて、プロジェクトワークでやってみると楽しそうです。ついでにそれを演じてyoutubeなんかに載せてしまうと、みんな見てくれますよ。
Posted by 管理人 at 2008年01月19日 06:39
>ついでにそれを演じてyoutubeなんかに載せてしまうと

それはとってもおもしろそうですね!
Posted by shibarie at 2008年01月19日 18:56
徹夜明けにふとこちらのブログを拝見し、読みながら、そうだなあと思いました(なにより管理人さんの、寸暇を惜しんでスケジュールを立て実行する姿勢のすばらしさに圧倒されました)。
受け皿論は私もいつも考えているので、コメントには一部賛成、一部反対です。確かに、教育は慈善事業ではない以上、学習者全員の受け皿を作る必要はないでしょう(そんなことをしたら学習者数がぜったいに受け皿以上に増えて結局イタチごっこだし)。
ただ「別に強制して教えているわけではない」「日本で●●語を勉強しても職はない」という2点は、そうだなとも思いつつ、若干ひっかかります。前者の論理に従えば、「客が欲しがるなら何でも売る」式の売らんかな商売になりかねない。商売人は自己の利益を追求するものだとしても、やはりそこには気遣いもあったほうがいいのでは?日本の経済力を背景にしてどんどん学習者が増える中で、「強制したわけではないから」だけで済ませられるかどうかというと、ちょっと心配になることもあります。変な比喩ですが、イスラム圏で女性が髪を包むのは、無用な魅力で男性の気持ちを乱さないため、ということになっています。私が美しいのは生まれつきなんだからあんたたち惚れるほうが悪いのよ、って言う考え方を、よしとしない人たちも、地上にはいるということでしょう。なおこの「日本語学習者受け皿作成論」については、もっと専門的な視点から必要性を唱えている人もけっこういますよね(基金にも)。
あと、日本の某外国語大学などでマイナー言語を学んでいる人たちなんかが就職がないのは本人たちも自覚しているようですが、海外の地域によっては、「日本語を勉強すると就職がいい」ということを強調して(まあ悪く言えば誇大広告を出して)学習者を集める機関だって現実にありますから(私もこの目で見てきましたから)、受け皿がないという現実を知らないで日本語に引き込まれる人もいると思うと、ちょっと心配になります。まあ情報収集をしていないのは個人のせいですよという考え方もあるのかもしれませんが、少なくとも日本人英語学習者の情報量に比べれば、海外辺境の日本語学習者の情報量には、やはり個人の不注意には帰結できないハンディがあるのでは?
すみません。プー太郎が偉そうに意見を言いまして。
Posted by お世話人 at 2008年01月29日 06:32
「お世話人」って誰かと思ったら、あちらのお世話人でしたか。

気遣いが必要なのはもちろんです。ただ、「受け皿がないなら教えるな」と主張する人は「受け皿はなくても学びたい」という人に対しては気遣っているんでしょうか。

それから、再生紙を売るのも、言葉を売るのも、嘘や誇大広告で売ってはいけませんよね。でもそれは嘘だからいけないのであって、紙を売ること自体がいけないわけではないでしょう。

私ももちろん、嘘をついてもいいから学習者を集めろなんて主張には賛同しません。騙されるのは個人のせいですよ、などという主張にも賛同しません。(だから、そういう主張にここで反論されるのも妙な違和感があります)

しかし、「受け皿より多く教えてもいい」というのは別の問題だと思っています。

(イスラム教の女性の比喩は、どうつながるのかちょっと見えませんでした。)
Posted by 管理人 at 2008年01月30日 05:56
初めまして、管理人さん
私はこのブログに朝青龍関へのバッシングのときにしばしば訪問するようになり、心を落ち着かせていたものです。今回、「泣いた赤鬼」が話題になっていたので、思わず引き込まれてしまいました。というのも、わたしは幼稚園の年長組のとき、「泣いた赤鬼」を読むたびに悲しくなって号泣していたからです。幼い頃に出会った絵本として、私が一番心に残っているのが「泣いた赤鬼」でした。悲しみの理由は、自分にとっていちばん大切なものを失くしたことやそういう事態を招いたのが他ならない自分であるという、考えの浅かった自分への嫌悪のようなものだったと思います。幼いながら「もう、取り返しがつかない」と思ったのでしょう。
今回、管理人さんの「深い読み」に出会って、救われたような気になりました。赤鬼と青鬼の関係は、「取り返しがつかない」わけでなありませんね。確かに2人は、一時的に疎遠になっても、その後の生き方によっては、一層、心が触れ合うこともありえますね。異文化に入り込んでみようというとき、赤鬼的な自由な発想や思慮の浅さが必要かもしれません。目からウロコの感慨でした。
Posted by 森不二子 at 2008年01月30日 21:12
「思慮の浅さが必要」ですか! なるほどですね。実は「エジソンの母」という放映中のドラマが大好きなのですが、それも、そういう思慮の浅い子供こそが開くことのできる可能性のようなものを暗示していて、非常に示唆に富んでいます。

そういえば、そういうようなことを
http://plaza.rakuten.co.jp/saijotakeo0725/diary/200801180001/
でも書いている人がいました。
Posted by 管理人 at 2008年01月31日 03:53
はじめまして。
メタボでべそと申します。

『泣いた赤鬼』から、異文化理解ですかぁ。視野が広いですっ。
そこまでは、考え及びませんでした。刺激になりますっ☆

わたしは、
「事実はひとつだけ。
 真実はたくさんある。」
って、思いました。

ありがとうございましたっ☆
Posted by メタボでべそ at 2009年02月05日 10:58
家内がずっと前から話していた一冊です。子どもが大きくなって、多くの絵本を処分しましたが、
この一冊だけ残してあります。

Posted by COOK CAR SOLD OUT at 2009年10月21日 05:46
この話の教訓
それは、
異質な者たちと友好関係を結ぶ為に必要なのは
話し合いでなく
武力の誇示
Posted by ん at 2010年06月01日 21:48
「泣いた赤鬼」小さい頃に読んだのを思い出しました。昔は青鬼さんがとってもかわいそうだと思っていたけど今は両者とも素敵だと思いました。どちらも相手に対して思いやりがあるから。続編はあえて作らず、それぞれでそれぞれの続編でいいと思います。自分に子供ができたらこの本を読ませて続編を考えさせてみようと思いました。
Posted by 歩 at 2010年12月17日 02:25
歩さん、コメントありがとうございました。
すてきなお話ですよね。お子さんができたら是非話してあげてください!
Posted by 村上吉文 at 2010年12月17日 14:51
この話の作者の浜田廣介さんは偉大な方だと思います
作品が何を問いかけようとしているのか、という観点ではなく、いかにして人を感動させるか、その術を完璧にモノにしていたのでは無いでしょうか
なぜ、ここまで感動する話であるのか、そうゆう考え方も必要だと思います
Posted by 通りすがり at 2011年01月20日 13:17
はじめまして。テレビで泣いた赤鬼を見ていたときは、気が付きませんでしたが、子供に読み聞かせをしていて、あれ?これって途中何じゃない?思いました。何十年と生きてきたのに、今頃築くのも可笑しいデスよね。
さて、この続きが他の方が書かれていたのにきずき、そうなんだと思わされました。
でも、やっぱり、昔から云い伝わられている泣いた赤鬼で終わりにしておき、あとは、自ら子供が創作出来るようにしているのかもしれませんね。
Posted by なな at 2011年02月18日 22:53
ひさしぶりに子供の音読で読みました。
それで、子供の頃とは全く違う感想を持ってしまい、気になり、検索してこちらを拝読しました。
どう思ったのかというと(なにこれ。棲みわけの話?人間と仲良くしたら、親友の鬼を失ってしまった。でも、アカオニは仲良くしたいだけだったのだが…)と思ったのです。
子供が発達障害ということもあり、常々似たような葛藤があったせいでもあるかもしれません。
こちらを拝読して、思ったことを整理でき、すごくよくわかりました。

Posted by 匿名希望 at 2014年09月25日 18:12
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「泣いた赤鬼」
Excerpt: ...手紙「親愛なる赤鬼くんへ。もし君が悪い青鬼の友達とわかったら、子供たちは君から逃げてしまうでしょう。だから僕はもう君には会いません。一人遠くへ行きます。どうか子供たちと仲良く暮らしてください。さ..
Weblog: Mphuong
Tracked: 2009-07-15 20:07