2007年09月15日

あえて悪役を引き受けた朝青龍

朝青龍の件をいろいろな人に話してきて、これはもう理屈ではなく「感情」の問題なのだということが、よく分かってきました。「理屈としては分かった。でも・・・」というパターンが非常に多いのです。といっても、この点は本ブログでも紹介してきたとおり、今回の騒動のかなり早い時点で村上龍が「国民のカタルシス」という記事で指摘していました。
処分が厳密な基準で行われたかどうかが問われないのは、ニュースが結果的に国民のカタルシス(感情の浄化・気晴らし)として機能しているからだ。その処分が何に基づいて行われたかよりも、国民の気が済んだかどうかがより重要になる。
http://blog.goo.ne.jp/sendatakayuki0123456789/e/66013c767686f6beb632ea769d7fcbf7

では、どうして国民はそのような感情を持つようになってしまったのでしょうか。これに関しては「こうして悪役に仕立てあげられる朝青龍」でマスコミの偏向報道をあげましたが、村上龍の言う「カタルシス」の面から考えてみると、どうなのでしょうか。

たとえば、以前、「朝青龍に「李下に冠を正さず」と言うなら」というエントリーで、北の湖理事長の横綱時代の膝の故障について書きました。彼も悪役だったにもかかわらず、膝の故障中に自転車に乗っていても、今回のような悪質なバッシングは起きなかったのですが、その理由の一つは、その当時の彼がそれほどの「カタルシス」を必要とする「抑圧者」ではなかったからではないでしょうか。

彼には輪島という好敵手がいました。輪島はどこから見ても正義の味方で、まだ子供だった私にとって、「威厳」とか「存在感」というものがブラウン管から吹き付けてくるように感じるほど、圧倒的な感覚があったのを覚えています。

そして、北の湖は輪島という正義の味方に対する悪役としての役割を忠実にこなしていました。輪島に勝てば、群衆のフラストレーションは一気に高まりますが、次の対戦で負けることで、その抑圧は解放されます。勝ったり負けたりすることで、「抑圧と解放」が適度に回っていたわけですよね。

しかし、残念なことに、朝青龍にはそういった好敵手が存在しませんでした。初場所から九州場所まで、全部、悪役が優勝してしまうのですから、そこには「抑圧」しかなく、それがまったく「解放」されないまま放置されるわけです。群集心理が恐ろしいことになってしまうのは想像に難くありません。

今回の騒動も、そういった、たまりにたまった「抑圧」を「解放」しようとする群集心理の発作だったという側面もあるのではないでしょうか。

二年近く前の記事ですが、今読むと非常に悲しくなる文章を発見しました。
2005/11/15 「日本人横綱と勝負がしたい」
今月号の文藝春秋に「日本人横綱と勝負がしたい」という朝青龍へのインタビュー記事が掲載されているのだが、これが面白い。素行に問題ありとの評もあるが、根が単純で素直、直情径行、負けず嫌いの男と称するほうがより実体に近い。モンゴルでの貧しい育ちから身につけたハングリー精神や家族愛を率直に語るところにも好感が持てる。

その朝青龍は、「伝統ある日本の相撲が大好きだ。強い日本人横綱が出てきて、我々外国人力士がヒール(悪役)だというのがあるべき姿じゃないですか」と述べている。
http://www.wafu.ne.jp/~windtown/life/l051115.html

彼の待ち望んだ日本人横綱は結局現れなかったものの、われわれ日本人が彼に悪役を演じることを求めていたことを、彼自身はよく知っていたんですね。

そして、そこに輪島のようなベビーフェイス(悪役を成敗する正義の味方)が現れれば、群衆の「抑圧」は適度に「解放」され、こんなことにならなかったのではないかと思うのです。

これに関して思い出されるのが、先月29日の北野武監督のコメントです。精神性疾患の朝青龍に向かって大量のフラッシュがたかれたわずか10分前に、北野監督はたまたま同じターミナルにいたそうで、朝青龍の件について報道陣に感想を求められ、以下のようにコメントしています。
だが、表情を変えず、考えた末に出てきた言葉は、騒動についてではなく日本人力士たちへの苦言だった。「日本人の相撲取りが弱いだけだろ」-。

 いつも的確に辛口な意見を口にする北野監督。この一言は、今回の騒動が朝青龍だけの問題でなく、日本人横綱不在という現状を振り返って発したもの。騒動は相撲界全体にあるとも取れる芸能界の“ご意見番”からの重い一言だった。

 さらに今後のさらなる相撲界の発展を願うように「日本人の強い相撲取りが出てきたらいいんだけどな…」とポツリ。朝青龍を脅かすような日本人力士たちの台頭を願い、相撲界に“ゲキ”を送った。
http://www.daily.co.jp/gossip/2007/08/29/0000581774.shtml

私が思うに、彼は檄を送ったのではなく、お笑い芸人や映画監督しての経験から、朝青龍もまた自分に求められていた役を演じていたに過ぎないことを理解し、その上で日本人のベビーフェイスがいなかったのが原因であると分析して見せたのではないでしょうか。

「日本人の相撲取りが弱いだけだろ」という「だけ」の部分に、私はそういうニュアンスを強く感じました。

確かに、悪役が一年の六場所全部で優勝するなどと言うことは、いまだかつてなかったことです。しかしそれは、悪役に非があるわけではありません。
posted by 村上吉文 at 04:50 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このエントリーをはてなブックマークに追加
この記事へのコメント
キャラクターだけなら彼は昔の初代若乃花や千代の富士に共通したものもあると思いますがね。
彼らは決してヒールではなかったし、子供にも人気があった。

別なところで、彼について、怜悧、生真面目、誠実な印象と書きましたが、相撲界における自分の位置づけをそう捉えていたとは、なにか情けない。

いや彼ではなく、悪役を求めてしまう日本人気質でしょうか。それが何となく情けない感じです。

土俵に上がればわかるのでしょうか、負けたときに乱舞する座布団の嵐の意味が。

まぎれもなく、今までのほぼ4年間、相撲界の主役ではあったはず。それを悪役としてあえてその座を自覚してたとは。

相撲の本当のファンは少ないのでしょうかね。彼は正々堂々と、多彩なわざで勝ち進んできました。

今場所の白鵬は横綱としていよいよ本格化して、間違いなく朝青龍に迫る「逸材中の逸材」です。

こうした人材が相撲界に入ってきた事の幸運さを本来は大喜びすべきだと思います。こうした相撲界にとって幸運だったという思いが相撲ファンや相撲協会にあればバッシングなんか起こりようがなかった。

と思います。

横綱二人がモンゴル人だけとは、我慢できないのでしょうか
Posted by かっちゃん at 2007年09月16日 02:20
こんにちは。
相撲に限らず、スポーツ界のことは知らないし興味もないのですが、今回は渦中の人が、外国人というので関心を持ち、各種の記事、ブログなど読んでいます。今回の記事、意外な視点からの記事で特に興味深かったです。

>横綱二人がモンゴル人だけとは、我慢できないのでしょうか
たとえそういう気持ちがあったとしても今回のような歪んだ形でそれを表現するのは恥ずかしいことだと思います。テレビもほとんど見ないのですが、今回はこのためにワイドショーも見ました。大半の出演者の冷酷で傲慢な発言と表情、明らかに見下げる位置からと感じざるをえないモンゴルでの取材行動には唖然です。

世界各国からの外国人たちに日本人は差別主義者だとか、冷たいとか、言われたことが少なくないのですが、今回のことで、ある意味、納得しました。どうすればこういう傾向を改善できるのか、悩んでしまいます。
Posted by ets at 2007年09月16日 13:10
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