2020年09月12日

上野千鶴子『情報生産者になる』

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス


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冒険家の皆さん、今日もラクダに揺られて灼熱の砂漠を横断していますか?

さて、Kindleの日替わりセールでずいぶん前に買っておいて読んでいなかった上野千鶴子『情報生産者になる』 を読みました。買っておいて読まなかったのは、目次を見て「論文以外は情報じゃねぇのか、ゴルァ!」と思ったからです。要するに研究論文の書き方なんですよね。つーか、研究者のよくあるこういう言い方、ホントやめたほうがいいと思うよ。

でも最後の章は出版に関わるところだったので、まあ、そこだけは読んでみようかな、と思ったのですが、何にせよ印象が悪かったのでしばらく放置してました。

ところが、最後の章を読んでみると、意外とおもしろいんですよ、これが。文体もガクジュツっぽくなくて読みやすいし。まあ、新書ですしね。それで最初から読んでみようかと思ったわけです。そしたら、更に面白かった!

文体の例はこんな感じです。
問いを立てるのは、「バカヤローを言いたい相手」がいるから。がまんできないから、納得できないから、ほっとけないから……です。そしてそれは、あなたがあなただから生まれた問いです。


結果的には、僕のように研究者ではない人間にとっても、少なくとも日替わりセールで買う分ぐらいの価値はあったと思いますし、社会学などの分野で研究者を目指す大学生ぐらいには定価(880円)で買う価値も充分にあるでしょう。

前半を読んでいて驚いたのは、僕が「冒険家インタビュー」をしながら考えていたことが、かなり言語化されているということです。

最近は日本語教育関係でも「中国人技能実習生の日本語学習アプローチ : 日本語能力試験のN1、N2に合格していない人に焦点を当てる」(苗苗栄)のような長いインタビューをもとにしたものがありますから、こういうことを研究したい人にもこの本はおすすめだと思います。

とにかくすごく具体的で、インタビューのマニュアルの部分には、こんな細かいことまで書いてあります。
日本家屋では玄関で靴を脱ぐ。脱いだ靴は必ず揃える。脱ぎ履きに面倒な履き物は選ばない。
中略
忘れがちなのが真夏の素足対策。日本の家屋は、履き物を脱いで入るところです。よそのお宅に上がるときには、洗濯したソックスを持参して玄関で履きましょう。


【賛成できないところ】
なので、全体的には面白かったのですが、まずは間違っているところから書いてみたいと思います。一番見過ごせなかったのはここですね。
問いを立てることは、いちばん難しいかもしれません。なぜなら、問いの解き方は教えることができても、問いの立て方は教えることができないからです。
 問いの立て方は教えることができるし、それこそ今まさに教育界でホットな話題なんじゃないでしょうか。QFTなどはまさにそうした試みの一つだと思います。詳しくはこちらを。
むらログ: QFTを利用した研修、もしくは「たった一つを変えるだけ」書評 http://mongolia.seesaa.net/article/445042311.html


あとは、やっぱりこういう目線ですよね。
なぜなら院生とは、情報生産者予備軍だから。
情報生産者とはプロの研究者だけであるというタカビーな態度。院生だって情報生産してるでしょう。

それから、主観的なことなので別に間違っていると言い立てるつもりはありませんが、違和感があったのはこういう文体。
「困ったわね。あなたの問いに答える先行研究はないわ。それならあなたが自分でデータを集めて研究するしかないわね」
女性学をやっている研究者にしては、すごくジェンダー的に不自由な表現っぽく聞こえるんですよね。まるで洋画の字幕翻訳みたいな感じがしません?

【賛成できる部分】
とは言いつつも、基本的に上野さんの言っていることには賛同できることが多いです。以下に羅列してみますね。
わたしは義務教育以降の国語の教科書の大半が、文学者の作品で占められていることにうんざりしています。散文のみならず韻文も含めて、どのようにも「解釈」し、「鑑賞」できる多義的な文章を、しかも文学青年くずれの国語教師が講じるのは、言語教育としてまちがっていると思います。

質的調査を強調する指導者のなかには、とってきた音声情報は自分自身の手で逐語表記することでデータの重要性をカラダに叩き込む、みたいな修行僧のような課題を学生に課す人もいますが、そんな人に限って、積み上がったデータをどう分析したらいいかを、教えてくれないものです。


冒険家インタビューをやめた理由がまさにこれ(↓)でした。
たとえばインタビュー調査の対象サンプルが二〇の調査に、あと数個のサンプルを追加しても、メタ情報(カテゴリー) はほとんど増えない、すでに得られたメタ情報の範囲に収まるという経験則です。GTAではこの状態を「カテゴリー飽和」(「理論的飽和」とも言う) と呼んでいます。質的調査のサンプル数の少なさについてはさまざまな疑義が出されていますが、この「カテゴリー飽和」状態に達すれば、サンプル数は当該の調査対象についてはほぼ適切であると言える根拠になっています。
30人ぐらいの話を聞いてみると、もう大体あとは「あー、カザフのカリーナさんと同じパターンね」とか見えてきてしまって、それほど発見がなくなってくるんです。でも、そういう現象に「カテゴリー飽和」という名前がついているのは知りませんでした。

それからこの部分。
こういう学びは、学びのための学び、手段としてではなく、それ自体が喜びであるような、目的としての学びです。わたしは『サヨナラ、学校化社会』[上野2002\2008] のなかで、前者を「生産財としての教育」、後者を「消費財としての教育」として区別しました。
これも日本語教育の世界では数年前から言われていることで、僕もこんな記事を書いたことがあります。
むらログ: 日本語学習の目的は課題達成能力の獲得だけなのか
http://mongolia.seesaa.net/article/419132924.html


次はこちら。
大学という教育機関にとって、提供するサービス商品はあくまで教育。人脈はおまけ(フリンジ・ベネフィットと呼びます) です。しばしば多くの人が「学生時代何を学んだか覚えてないけれど、一生の友を得た」とか言うのを聞くと、大学はお友だちづくりの場なのか、教育に付加価値はないのか、と思ったものでしたが、どうやらRSSCにおいては学びやボランティアという「活動」と、それを支える「人脈」とはクルマの両輪であることが浮かび上がってきました。
僕が「#Zoomでハナキン」をやっている理由がこれかもしれません。

あまり大きな声では言えませんが、ここも同感。
わたしは学会誌の覆面査読(3) が権威主義的でとってもキライでした。一方的に査定を下すのではなく、査読者が堂々と顔を見せて、執筆者と対話すればよい、と思ってきましたので、その信念を貫いて今日まで学会誌の査読は原則お断りしてきました。査読の依頼があれば、「貴学会は査読者を公表なさいますか? もしそうなさるようでしたら、お引き受けします」と伝えましたが、それに応じてくれた学会はありませんでしたから、幸いにして他人の論文の査読をするという、時間ばかり食って功の少ないしごとを引き受けずにすんできました。
この本ではこのあとにコメンテーター方式というのが紹介されるのですが、それとは別に学会員全員で読んで、論文集に載せるかどうか決めるようなアプローチがあってもいいんじゃないかと思うんですよね。査読者がその事例について執筆者よりも詳しくないこともあるし、情報としては貴重なのに、掲載されないとそれが共有されなくなってしまうのは本当にもったいないです。

ここも同感。
いくらコンテンツをつくっても、読者に届いてなんぼ。それを忘れている研究者が多すぎ
論文を書いたら電子書籍にして自費出版すればいいのに、すごく少ないですよね。ただ単に出世の道具だと思ってる人、多くないですか? 知の共有を目指すのなら、出版するなり、Webで公開するなりしなければなりませんよね。印刷の自費出版はお金がかかりますが、電子書籍なら無料で出版できるし、アマゾンで他の書籍と肩を並べることができるのは大きいです。というようなことを5年前に書いたことがあるのでご関心のある方はこちらをどうぞ。
「むらログ: みなさんもKindleで出版してみませんか?」
http://mongolia.seesaa.net/article/412250862.html


5年前のこの記事以来、僕は毎年一冊以上のペースで電子出版しています。上野氏もこんなふうにKindleには好意的です。
アマゾンが書籍の電子化を図ったときに、日本ペンクラブの一部の会員は著作権訴訟を起こそうとしました。わたしにも呼びかけが廻ってきましたが、わたしはそれに同意できませんでした。


出版に関してはこんな事も書かれています。
ネット環境のせいで、印刷メディアの地位は低下しました。ですが、信頼できる情報コンテンツへのニーズはなくなっていません。出版業はなくなっても、編集者は残る、とわたしが考えるのはそのためです。
実は僕もこれは感じることがあるんですよね。相場とかは分かりませんが、負担できる額なら編集者に協力してもらって電子出版というのが今は一番優れた方法かもしれません。

つぎはこちら。
わたしはこういう対面的な小集団による教育力を高く評価していますから、少人数によるゼミナール方式が大学教育のエッセンスであり、これがeラーニングにとってかわることはない、と確信しています。
僕も大学で未だに見られる「一対多の一方的な同期型の講義」というのはまったく意味はないと思っています。学生同士のディスカッションや、個人面談こそが教育の名に値すると断言できます。

教育については、ここも非常に同感です。
上野ゼミの受講生たちから贈られるうれしいことばのひとつに、こんなものがありました。「上野センセは、わたしたちの中からまだ見ぬものを生み出してくれるお産婆さんみたいな存在なのよ」と。そのとおり、「まだ見ぬもの」は、もともとその人のなかに存在しています。それにかたちを与えてこの世に引き出すのが、教育者の役目です。そしてそれが誕生する瞬間に立ち会うのが、教師の醍醐味だと言ってよいでしょう。
教員の仕事は尊いものだと思いますが、それはあくまでもこうしたことができる人がいるからです。しかし、教員養成ではそんなこと習いませんよね。教科書のシラバスとか、時代遅れのくだらない板書計画とか、知識の伝達方法ばかりです。これではまともな教員が育つはずがない。ただ、こういう、その人の中にすでに存在するものに気づいて、「それにかたちを与えてこの世に引き出す」方法をどう教えればいいのか、僕にはまだ分かりません。

【勉強になった部分】
最後に、僕は知らなかったので勉強になった部分をメモしておきます。

社会学では、「社会問題の構築主義」というパラダイム転換が起きて以来、社会問題の捉え方が一八〇度変わりました。
中略
構築主義パラダイムが成立して以来、「社会問題」とは人びとが社会問題だと定義する現象であり、それはある現象を社会問題だと言い立てる人びとの行為(claim making activity(2) と言います) によって構築される、という見方が定着しました[中河1999]

自分が自分を研究対象にする、というのは究極の自己矛盾、客観的であるべき研究が成り立たないというのがこれまでの考えでした。ですが、エスノグラフィのなかには、ちゃんと自分誌auto-ethnographyという分野があります。

日本で生まれたのが当事者研究です。自分が自分の専門家である、自分以上の専門家はいない、と思えば、生まれてからこの方、「じぶん」というフィールドにおいて参与観察をしてきたようなものです。

社会学にはインフォーマルグループについての小集団研究がありますが、なぜだかその最大サイズは一五人、それを超すと集団はふたつに分解する傾向がある、とわかっています。一五人のグループがふたつに分解すると七人から八人。実際わたしが関西で三〇〇近い女縁グループの研究をしたときのメンバー数の最頻値が七、八人で、その符合に驚いたものです[上野2008]。経験的にも七、八人とはひとつのテーブルでひとつの話題を共有することのできる上限の人数。これにもやはり身体的な限界が関わっているかもしれません。

論文のメッセージを発信しているのはあなたであり、その内容に責任があるのはあなた一人なのですから、ここは一人称単数形である「私」を使いましょう。「私」は、公共空間における性別を問わない一人称単数形です(わたし自身は、「私」でなくひらかなの「わたし」を使うほうが趣味ですが)。

反対に、自分の提供したデータが切り刻まれ加工されて、「ここには自分がいない」「あれはわたしではない」と、調査対象者に思わせる研究論文は、失敗作だと言えるでしょう。言い換えれば、研究論文のもっとも最初の、そしてもっとも厳しい判定者は、調査対象者だということ。

開口一番、「いまの報告に質問、意見はありませんか、ご自由に発言してください」という発言が司会者の口から飛び出したとたん、わたしは介入します。それは司会者のしごとではない、と。報告のなかにすでに問題は提示されています。それをとりまとめて、優先順位の高い順に配分し、「これとこれとこれについて、これからこの順番で議論したいと思います」と言うべきなのです。

最近では山崎亮さんのように「コミュニティ・デザイナー」を自称する人が、東北芸術工科大学コミュニティデザイン学科で人材育成をしていますから、できないわけではなさそうです[山崎2012]。


最後に、あとがきから。
情報生産者になる意欲は湧きましたか? 何度でも言いますが、情報消費者になるより、情報生産者になるほうが、何倍も楽しいですから。
 まあ、上野さんにはブログなどは情報ではないのでしょうが(^^)、情報を受信しているだけよりは、積極的に発信するほうがずっと楽しいですよね。

あ、それから、もしかしたらこの本を読んで得られた最大の学びは、上野千鶴子氏は上野田鶴子氏ではないという事実だったかもしれません。

そして冒険は続く。



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むらログ: QFTを利用した研修、もしくは「たった一つを変えるだけ」書評
http://mongolia.seesaa.net/article/445042311.html

むらログ: 日本語学習の目的は課題達成能力の獲得だけなのか
http://mongolia.seesaa.net/article/419132924.html

「むらログ: みなさんもKindleで出版してみませんか?」
http://mongolia.seesaa.net/article/412250862.html

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posted by 村上吉文 at 21:45 | 日記 | このエントリーをはてなブックマークに追加