2019年04月02日

新元号の発表に見る日本の退化

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス




冒険家の皆さん、今日も久しぶりの残業でスープに肉団子を2つ入れていますか?

さて、新しい元号が発表されてから、ちょうど24時間になります。
それまで全然関心がなくて、もう西暦だけにすればいいじゃんと、実は心の底から本気で思っていたんですが、次の元号を聞いてみると、もう平成を全部水に流してしまった方がいいんじゃないかという解放感みたいなものを感じるようになってきました。ジャーナリストの佐々木俊尚さんもこんな風に書いていますが、まさに同感です。




平成は、バブルの頂点から始まり転落の一途で、日本人だけではにっちもさっちもいかなくなってついに移民国家として外国人労働者を正式に受け入れるところまでやってきました。江戸時代の硬直した徳川幕府ではにっちもさっちもいかなくなって鎖国が終わり、明治になって文明開花したように、令和もこの「第二開国」によって生まれ変わって欲しいですね。

そこで重要になるのが、「前例を踏襲するのは単なる劣化である」というごく当たり前の考えです。これだけ変化の早い時代なのですから、前と同じことをしていたら劣化以外の何ものでもないのです。

例えば今回の新元号の発表を例にとって考えてみましょう。前回は「平成」と筆で書いた 文字を後に総理大臣になった小渕恵三官房長官がテレビに向けました。その前は大正から昭和に移るときで、ラジオ放送ですらまだ試験放送から本放送に変わる段階だったので、当然テレビはありません。視覚的なプレゼンなどやりようがなかったわけです。ですから小渕さんにとっては新しい元号を視覚的に発表するための何の前例もありませんでした。そして当時はまだ パソコンも普及していなかった時代で 、あのような場で大きく見せるには墨で黒い文字を大きな紙に書いて見せるというのが普通でした。芸術の一分野である書道などではなく、それが仕事の一般的な方法だったのです。平成に入ってから10年以上経ってもまだプロジェクターが1台200万円以上していたことを思うと、スティーブ・ジョブズのようなプレゼンができたはずもありません。こうした時代的な制約の中で、小渕さんはできるだけ視覚的なプレゼンを行おうとこころみたのだと思います。

そして僕が非常に落胆を感じてしまったのは、今回の「令和」の発表が、まるで小渕さんの「平成」の発表の録画を再生でもしているかのような、何の進歩も見られない形式だったことです。メディア自体は、テレビだけではなく Facebook や Twitter Instagram ニコニコ生中継などのソーシャルメディアが入り、首相官邸もそれを主導していましたから、そこは大きな進歩だったと思います。 しかしあの発表には、やはり何らかのプレゼンソフトなどがあってしかるべきだったのではないかと思います。特に発表の後半の「うめはきょうぜんのこをひらき」とか、僕のような人間だって文字がないと全くイメージできませんから、若い人には全く何がなんだかわからなかったのではないでしょうか。

「元号を発表するときに墨で書いた文字を額に入れて官房長官が新聞記者やカメラマンに見せる」というのは伝統でも何でもありません。「平成」の発表の時には、その時代としてはもっとも最先端の方法でプレゼンをしたのです。その唯一の例を参考にして、プロジェクターもプレゼンソフトも普及している31年後に全く同じ形式を踏襲するというのは、まさに劣化に他なりません。 何百年も前からやっていることならともかく、前回に一度だけやっただけにすぎないことを踏襲するのは、伝統でも何でもないのです。

時代というのは常に前に進んで行かなければならないものです。僕たちは今やちょんまげをしてないし、学校でも明治時代のように石版に石筆で書き取りをしたりはしていませんよね。そして紙の時代ももう終わりを告げようとしています。石版と石筆の時代を卒業したように、僕たちは平成という時代を卒業しなければいけません。

わかりやすいようにあえて単純化して言うと、少なくとも教育で ICT を使うという面においては、日本はもうこれ以上落ちることができないところまで落ちてしまっているのですから、変化なら何でもいいのです。今までと違うことさえすればそれだけでも価値があります。 変化して失敗することもあるかもしれませんが、変化しない方がよほど大きな失敗なのです。前にも引用したことがあるかもしれませんが、もう一度PISAの調査をグラフ化したものをご紹介しますね。




繰り返しますが、教育の ICT 化において、日本は先進国でも途上国でもなく、底辺国なのです。もう失うものなんて何もないのです。これ以上落ちようがないところまで落ちているのです。まずはそこを自覚しましょう。

お金がない? 別にお金なんていらないんです。単に禁止するのを止めさえすればいいんです。教師が「使っていい」とひとこと言うだけで変わりますよ。そうしたら教育の ICT 化なんて自動的に進みます。だってその方がずっと正確で楽なんですから。 こうした方法は「BYOD」と呼ばれていて世界中に普及しています。もちろんそれぞれの国の中にも先進的な学校もあればアーミッシュのような保守的な人もいるので、どの学校でもそうだとは言いませんが、 このBYODという形式があるということぐらいは、先進国の平均的な教師なら知っているのではないかと思います。

とにかく変化しましょう。みんなが変化さえ続けていれば、誰かが必ずいい方向を見つけます。変化しないで同じ場所にとどまることは、繰り返しますが劣化にすぎません。前と同じことをしてはいけません。

そして冒険は続く。

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posted by 村上吉文 at 11:44 | 日記 | このエントリーをはてなブックマークに追加