2018年01月29日

多様性のコストとメリットと日本語教師の役割

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス


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冒険家の皆さん、今日も犬ぞりに引かれて吹雪の大氷原を横断していますか?

さて、1月27日土曜日に第6回日本語教チャットを行いました。

最初の自己紹介のところに書き込んでくれた人だけでも31名の方がいらっしゃいましたし、自己紹介をしてない人たちも後半に書き込んでいらっしゃったので、正確には数えていませんがもっと多くの方が参加してくださったものと思っています。ありがとうございます。僕自身にもいろいろな気づきのきっかけになりました。

移民と言えば、僕自身も名実ともに移民社会であるカナダという国に住んでいて、イギリス系でもフランス系でもないマイノリティーとして暮らしています。その立場から見えてくる、本格的な移民社会になった後の日本のことを今日は考えてみたいと思います。日本語教師のように、常に自分とは違う文化と向き合っている人にとっては当たり前のことばかりだと思いますので、そういう方はお気軽に読み飛ばしてくださっても結構です。

【多様性のコスト】
まず、いろいろな価値観を持っている人たちが一緒に暮らすようになると、それは豊かさでもあり、かつコストでもあるということです。

コストというのは、例えば日本語の分からない人に、日本語を教える必要があるとか、ゴミの出し方を知らない人にゴミの出し方を教えるとか、そういう相手を同化させるためのコストだけではなく、受け入れる側自身も変わらなければいけないというコストもあります。

上の例ではゴミの出し方を教えるにも手間暇がかかることもあるかもしれません。しかし、いちばん大きい事は、「阿吽の呼吸」とか「以心伝心」ということが、多様な価値観を持つ人たちのグループの中では期待できなくなることです。

例えば、意外に思われるかもしれませんが、アルバータ州教育省の僕の職場でもドレスコードが明文化されています。月曜日から金曜日はいわゆるビジネスカジュアルで、金曜日はカジュアルフライデーで、「これだけには限らないが、例えばこういうもの」という書き方がされています。僕は今まで、いろいろな国で働いてきましたが、ドレスコードが明文化されている職場というのは、ここが初めてのように記憶しております。

つまり、そういう些細な点においても、「常識的な服装」とか「他人に不愉快な思いをさせる服装を慎む」とかいう主観的な基準ではないのです。それはおそらく、不愉快な思いをする基準が文化によって多様だからで、そうした主観的な基準では実際に役に立たないからでしょう。

また、職場の持ち寄りパーティーなどでは、いろいろな宗教の人がいるので「レッドミートは避けて欲しい」とか「グルテンフリーが望ましい」とか、気を使わなければならないこともたくさんあります。これはつまり、多様性の高い社会ではコミニケーションのコストが高くなるという事でもあります。

逆に、日本のように多様性が低く画一的な社会では、「阿吽の呼吸」とか「以心伝心」など、コミニケーションコストが低いことが推奨されてきました。しかし、これから日本が多様性の高い社会に移行していくにつれ、こうした「コミニケーションコストが低い」というメリットは失われていくでしょう。それは、江戸時代が終わって僕たちが「ちょんまげ」を失ったのと同じように、あるいは独裁国家が民主国家に移行すると独裁者の意思だけで決められなくなるのと同じように、前に進むための避けられない(しかし、あとから見れば大したことのない)コストだと思っています。

今回の日本語教師チャットでも、チャットが終わった後でしたが、電車の中で携帯で大声で話している外国人の例が挙げられていました。そういう時も、もし携帯で話すことが禁止されているのならその点を誰かが笑顔で教えてあげなければならないでしょう。そういう事は、これまで以心伝心とか阿吽の呼吸でやってきた日本人にとってはかなり面倒なことで、ストレスを感じることもあるかもしれません。また、携帯で話すことが禁止されていない場所だったら、仕方なく我慢するか、あるいは「うるさいからやめてくれ」と言わなければならない状況にもなるでしょう。いずれにせよ、席を譲るのも緊張してしまうようなタイプの人にとっては大きなストレスになるのではないかと思います。


【メリット】
さて、今日のブログの最初に多様な社会の豊かさとコストと書きました。コストについてはここまで書いてきましたが、豊かさについても時々大きな誤解があるように思うことがあります。そして、実際この日本語教師チャットでも指摘されていたのですが、多様化の最も大きなメリットもしくは豊かさとは、エスニック料理に舌鼓を打ったり民族衣装を着てInstagramに投稿したりするようなことではないと思います。(もちろんそれも豊かの一つではありますが)

多様化の本当のメリットは、いろんな弾が撃てるようになることだと僕は思っています。弾というのは、「下手な鉄砲、数うちゃ当たる」というときの鉄砲の弾です。なぜなら、前にこのブログでも書きましたが、世界はどんどんVUCAになっているからです。VUCAについては参考文献のところに入れましたが、「変化が激しく不確実で複雑で曖昧」という意味のアクロニムです。こういう世界では、いくら綿密に調査して周到な計画を立ててもうまくいかないので、多様なアイディアを短いサイクルでどんどん試してみる必要があります。そして、多様なアイディアを出すには皆が同じ知識と経験を持っていてはいけないのです。「三人寄れば文殊の知恵」という諺がありますが、これはこの3人がそれぞれ違う経験や知識を持っている時にしか役に立たないということは皆さんにはわかっていただけるでしょう。

今まで日本の社会は予測が可能で、大学を卒業して一度就職したら定年までその会社で働き続けるような、先の見通せる人生を僕たちは生きていたのです。そして、大きな工場で大量の人員が同じ規格の製品を大量に生産していました。そのような社会では、一人一人が多様であるよりも、むしろ規格通りで代替可能であることの方がたいせつだったのです。しかし、上に書いたように今世界はどんどんVUCAになっています。そのような社会では、指示されなくても皆が同じような発想から同じように行動できることよりも、それぞれが違う発想を持ち、急速な変化にも多様なアイディアで迅速に対応できることの方が大事なのです。

そして、日本が本格的な移民社会になって、本当の意味で多様性を重視できるようになると、それは移民だけではなく元からいた日本人にとっても大きなメリットになると思います。なぜなら、百歩譲って仮に日本が単一民族であったとしても、実際には障害を持っている人や、性的嗜好が少数である人たちなどがいて、多様性を尊重されない社会ではその人たちが排除されてしまうからです。つまり、多様な社会というのは、すなわち包摂的な社会と言うこともできるのです。それは、単にバリアフリーで車いすの人も街中を移動できるということだけではなく、多様な価値観を持っている人が自分を隠さずにありのままで生活できるということでもあります。そうした社会は、自分を偽りながら生きなければいけないよりもはるかにストレスの少ない生き方が可能になるのではないかと思います。

僕の職場にドレスコードがあるということを上に書きましたが、多様性が社会の強みであるということはみんながよく知っているので、いわゆる同調圧力というようなものは全く感じたことがありません。子供を学校に迎えに行かなければならない人は、3時半に職場を後にします。また、午後6時半まで残って仕事をしていた時は、上司に「どうしたんだ! 一体何があったんだ!」と驚かれたりもします。

多様性が高くルールが明文化されている社会では、してもいいことと、していけないことが比較的わかりやすいので、うじうじと迷ったりする必要はありません。その意味で、コミュニケーションにかかるコストを差し引いても、とても暮らしやすい社会と言ってもいいのではないかと思います。

【日本語教師の役割】
日本もそのような社会にぜひなってほしいと思うのが僕の思いですが、そうなるためにはひとつの条件があります。それは多様な人たちがそれぞれに壁を作って分裂するのではなく、お互いにコミュニケーションが活発なコミュニティを作るということです。今探しても見つからなかったのでソースが示さないのですが、職場の多様性はお互いに交流があるかどうかでプラスにもマイナスにもなるという研究を読んだことがあります。つまり多様性だけあってお互いに交流がない場合は多様性が分裂につながってしまい、コミュニティにとってはマイナスになってしまうことがあるのです。ヨーロッパにおけるテロなどもこうした例が少なからず見受けられます。しかしその一方で、メンバーの間に交流があり多様性を生かすことができれば、それがコミュニティにとってはプラスになるのです。そして言うまでもなく、メンバーの間で意思疎通を行うには共通の言語が必要です。カナダであれば英語かフランス語だし、日本なら間違いなく日本語です。

これは言い換えると、これから多様性が増えていく一方の日本において、日本語教師の役割が死活的に重要になるということです。学習者にとって日本語が重要なことはもちろん僕たちもみんなよく自覚していると思いますが、実はそれだけではなく、本格的な移民時代を迎える日本という巨大な社会にとっても、その多様性をいかした豊かなコミュニティを築けるかどうかは、僕たち日本語教師の肩にかかっているのです。その意味でも、僕たちは日本語教育が可哀想な人達への慈善事業なのではなく、僕たち自身のコミュニティの未来のための投資に他ならないということをよく認識しなければならないと思います。そして日本語教育の関係者ではない外部の人達に対しても、この仕事が日本の社会にとってどれだけ重要な役割を担っているのかを主張していかなければならないのではないでしょうか。


そして冒険は続く。

【参考資料】
第6回 #日本語教師チャット 「移民時代の日本語教育」 - Togetter
https://togetter.com/li/1194222

ウィキペディア VUCA
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/VUCA

むらログ: 【彼らは冒険者だったんだ】
http://mongolia.seesaa.net/article/449316472.html
(VUCAな時代の行き方について書いています)

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posted by 村上吉文 at 23:14 | 主張 | このエントリーをはてなブックマークに追加