2016年08月21日

知識ありきではなく、文脈ありきで行こう!

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス


Kanjis

冒険家の皆さん、今日も羊皮紙の地図を見ながら砂漠の横断ルートを研究していますか。

さて、日本語が母語でない人のための日本語教育や、日本の国語の授業で、特定の漢字を含む言葉を思いだして書く練習というのをときおり見かけます。
たとえば「潮という漢字が入っている言葉を3つ書きましょう」とかいうあれです。
僕の専門は日本語教育ですが、日本人児童向けの国語の授業でもよく見かけますよね。
でも、あれってすごく疑問なんです。

【文脈がない】
なぜ疑問なのかというと、そこに何の文脈もないからです。
教育って、何かができるようになることを目指すわけですよね。
何の文脈もないところで特定の漢字を思い出す練習で、何ができるようになるのでしょうか。日常生活の中で、そういう状況ってあります?
少なくとも僕には思いつきません。
だから、どうしてもこういう練習や宿題の意味が見いだせないのです。
そして、意味の見いだせない練習に時間をさくことは、自律性の高い学習者にとっては非常に苦痛です。
そして、市川伸一の『学ぶ意欲の心理学』に出ていたように、内容関与的動機の高い学習者ほど学習方法に関心が高いですから、漢字を学ぶ動機の高い学習者ほど、こういう練習の結果、動機を失ってしまうということになりかねません。
(逆に、「もともと漢字なんか興味ないけど、先生にほめられるのが好きだから宿題をする」という優等生タイプには影響がないかもしれません)

【辞書を使えばいい】
そこで、そういう練習をさせている先生や、そういう課題を与えられてしまった学習者に僕が提案しているのは「辞書を使え」ということです。辞書を見れば、何の文脈もない状況では思い出せなかった言葉でも、たくさん見つけることができます。そして、そこで思い出した言葉は、普段は何の不便もなく使いこなしている言葉であることに多くの人が気づくでしょう。そして、「どうしてこんな言葉が思い出せなかったんだろう」と不思議に思います。でも、答えは簡単です。思い出せないのは文脈がないからです。
少なくとも、ここからは「何の文脈もなく思い出せない言葉」は「知らない言葉」ではないし、「文脈があっても思い出せない言葉」でもないことが明らかです。

【辞書を使ってはいけない?】
さて、「思い出せないならさっさと辞書を見ろ」というような提案をすると、驚いたことに「それはずるい」というような反応を見せる人がいます。儒教の影響の強い国などから来た学生などに特に多い印象があります。もしかしたら科挙の影響かもしれません。
しかし、そもそも「特定の漢字を文脈もなく思い出す」という作業が仕事や買い物などの間に必要になる可能性はあまりないので、さらにその上にその作業が辞書を見ることを禁止された牢獄のような環境で必要になるということも考えられません。ということは、そのような能力を開発する必要は全くありませんよね。
にも関わらず、このような反応が多く見られることは、もしかしたら「できることを増やす」よりも「知っていることを増やす」という、例の旧弊からきているのかもしれませんね。
つまり、情報や各種のデータを自分の脳内に溜め込んでおくことを美徳とする考えです。

【知識は目的ではなく手段】
しかし、僕はこういう考え方に賛同できません。もちろん、知識は少ないよりは多いほうがいいです。僕も日々、いろいろ勉強しています。何らかの能力を発揮するためには、その下にいろいろな知識が必要です。でも、それはあくまでも、その知識が何らかのゴールを達成するために使える時だけです。「知識があっても何もできない」よりは、「知識が少なくても何かができる」方がいいのです。つまり、知識は単なる手段であって最終的な目的であってはなりません。

【知らなかった言葉を書きましょう、ならいい。】
ちょっと話がそれますが、ほんの少しだけこの練習を変えるだけで、もう少し役に立つ練習に変えることができることをご紹介しましょう。それは、「この漢字を辞書で調べて、知らなかった言葉を書きましょう」とすることです。
ただし、ここでも文脈がないことに変わりはないので、僕はあまり好きではありません。しかし、少なくとも「この漢字のつく言葉を3つ思い出して書きましょう」よりはよほど生産的なのではないかと思います。

【まず文脈ありき、で行こう!】
話を戻しましょう。
「文脈がないので好きではない」と書きましたが、じゃあ、どうすれば文脈を活かした状況で学習者の漢字を増やせばいいのでしょうか。それは、まず文脈から出発することです。
たとえばお菓子を作るのが好きな学習者がいたら、お菓子のレシピを見て、知らない単語を抜き出してノートに書くとか。
アニメや映画が好きな人あったら、エンドロールに出てくる「監督」「脚本」「字幕」「主演」などの難しい漢字を書くとか。僕も実際にハンガリーで映画のDVDを探すときに、これらの言葉をハンガリー語で調べたら、すごく世界が広がりました。また、有名な俳優や声優の名前に出てくる漢字なども、少なくとも映画やアニメが好きな学習者にとっては重要な知識になるはずです。

【多様性と自律性】
こういう考え方を受け入れるには、多様性と自律性という2つの概念を理解しておく必要があります。まあ、こういう概念を知らない人はほとんどいないと思うので、理解するというより、受け入れるということでしょうか。
つまり、お菓子が好きな学習者もいれば、映画が好きな学習者もいるということです。それが多様性。そして、それを学びに結びにつけるには画一的な一斉授業ではなく、結果的に学ぶ内容も多様になることを受け入れなければなりません。
そして、こうした多様な学びを実現するには、先生に指示された内容だけを無目的、かつ
盲目的に暗記するような他律的な態度ではなく、自分の学びを自分で管理するという自律性が必要になります。

【今の制度じゃ、そんなのそんなの無理?】
もちろん、自律学習に慣れていない一般の教員の皆さんがこういうことをするのにはまだハードルが高いかもしれません。普通の教室の一斉授業の中で、決まったカリキュラムをこなさなければならないわけですから。それはよく分かります。

でも、夏休みの宿題もそうですか? 

学期中は確かにみんな同じ時間に学校に来て同じ教科書を開いて、先生の言うことを聞いて、学習者は勉強しています。

でも、夏休みは違いますよね?

みんなバラバラの場所にいて、多様なものごとに関心を持ち、自由に自分の好きなものを追求することができます。

多様な生活を送っていて、自律的に学習する習慣をつける絶好の機会である夏休みでも、何の文脈もなく漢字を思い出す練習が必要でしょうか?

「この漢字のつく言葉を3つ思い出して書いてみよう」というような宿題を出してしまった先生がた、来年は「身の回りにある知らない漢字を集めよう!」という宿題を出してみてはいかがでしょうか。

【学習者を先生の代わりに】
そういう提案をするとすぐに聞こえてくるのが、「そんなことをしたらその漢字を授業で扱うときにすでに知っている学習者が教室にいて困るだろう」という反論です。
結論から言うと全く困りません。なぜなら、「その漢字どこで見た?」という風に、学習者を情報ソースとして使うことができるようになるからです。

ここでもキーワードは「多様性」です。

みんな同じで誰もその漢字を知らない時は、学習者の側から自分たちの生活に身近な例などを出してもらうことはできず、教科書に載っている無難だが全く具体的ではない例(どこの誰かも知らない「花子さん」とかが例文に出てくるタイプ)や、世代の全く違う教員が無理やりひねり出した例文しか使えません。

しかし、上記のように「この漢字、どこで見た?」なら、具体的で学習者の生活に密着した語彙などがたくさん出てくるのです。

大事なことなので繰り返しますが、夏休みに「この漢字のつく言葉を3つ思い出して書いてみよう」というような宿題を出してしまった先生がた、来年は「身の回りにある知らない漢字を集めよう!」という宿題を出してみてはいかがでしょうか。

そして冒険は続く。

【参考資料】
むらログ: 学ぶ意欲の心理学
http://mongolia.seesaa.net/article/360807316.html

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posted by 村上吉文 at 20:16 | TrackBack(0) | 日本語hacks! | このエントリーをはてなブックマークに追加

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