2015年11月16日

入院するまで気が付かなかったこと

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス


DENTAC-J hosts JSDF dental residents

冒険家の皆さん、今日も旅の途中で村娘からもらった軟膏を傷口に塗り込んでいますか?

さて、長い人生を生きていると昔のことを忘れてしまっていることがよくあります。僕もネットで検索していて、「お、こいつ、俺と同じこと言ってるじゃん!」と思って開いた記事が自分の書いたものだったりすることがよくあります。いや、「よく」はないな。そういうことが二、三度ありましたが。

そんな感じで先日もふと思い出したのですが、高校の時に交通事故で一ヶ月半ほど入院していたことがあります。僕はこの事故のことを理系へ進む道を諦めたきっかけとなったというネガティブなイメージで認識していたのですが、実は僕が今取り組んでいる自律学習の原体験でもあったことに最近気が付きました。

事故による怪我はまったく大したことなくて、ただ単に顎の骨が折れただけなのですが、なぜか入院になってしまいました。食べ物が食べられないからという理由だったのかもしれません。そういえば点滴とかもしてたっけ。

しかし、顎以外は骨や関節に関わるような怪我はなかったので、二、三日もしたら入院生活が退屈でたまらなくなりました。スーパーボールを脇の下に挟むと手首の脈が止まるんですが、そうやって死んだふりをして検診に来た看護婦さんを驚かせるという遊びもすぐに飽きてしまいましたし。おまけに高校受験に失敗して滑り止めに入ったという人生初めての大きな挫折から半年しか経っていなかったこともあり、学校の勉強に遅れないように自習しなければと思い始めました。

実は、それまで僕は勉強というものは先生に教わるものだとばかり思っていました。NHKラジオの英語講座を聞いていたこともありましたが、その番組にも必ず先生がいました。ですから、教科書というものは先生の指示に従って開くものだったのです。典型的な指示待ち人間ですね。

しかし、当時はインターネットもありませんでしたから、入院中のアホな高校生に指導してくれる先生など、もちろんいません。しかし、勉強には遅れたくない。それで、仕方なく自分で教科書を読み始めたのです。もしかしたら、それは生まれて初めて、自分の意志で教科書を理解しようとした、最初の経験だったのかもしれません。

そして、読んでみて驚いたことは、「意外と分かる」ということでした。今考えてみれば当たり前ですが、高校の教科書というのは読者である学習者を分からせるために書いてあるので、普通に読んだら分かるのです。

しかし、そうした経験のまったくなかった当時の僕にはこれは結構「目からうろこ」のできごとで、「もしかして先生っていらなくね?」と淡い背徳感とともに思ったのを覚えています。

残念なことに、その後、退院して普通の一斉授業に戻ってからは、そんな驚きなど簡単に忘れてしまって、自律的に勉強するようにはなりませんでした(ほら、基本的に高校生ってアホですから)。しかし、僕のように毎日、学習者の自律性を主張している人間ですら、実は怪我による入院という緊急事態に追い込まれるまでそのようなことを考えてみたことすらなかったのが事実なんですよね。

思い込みというのは恐ろしいです。自律的な学習を他者から強制されるぐらいの働きかけがないと、人は自分が自律的に学習できるのだという簡単な事実に気が付かないまま、一生を送ってしまうのかもしれません。

僕は幸いなことに交通事故によってその事実に気がつくことができました。しかし、そういう宝くじみたいな幸運は誰もが期待できるものではありません。

では、誰がそれを子どもたちに教えてあげるべきなのでしょうか。それは教室にいる教師なのではないかと僕は思っています。たとえば日本語の先生にとって、日本語を教えることよりも、むしろ「先生に習わなくても日本語は身につけられる」という事実を包み隠さずに伝えることの方が、むしろ大切な仕事なのではないかと思っています。

そして冒険は続く。

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posted by 村上吉文 at 04:31 | TrackBack(0) | 日記 | このエントリーをはてなブックマークに追加

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