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2014年07月26日

「明日の広告 変化した消費者とコミュニケーションする方法」

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス




冒険家の皆さん、今日もたいまつを持って吸血コウモリのいる洞窟に忍び込んでいますか?

さて、明日の広告 変化した消費者とコミュニケーションする方法 (アスキー新書 045)を読みました。2008年の本で、すでに続編も出版されているようですが、日本語教育界にとってはまだまだ斬新な目で見ることができます。特に、6年前に広告業界を取り巻いていた状況と、現在の、特に海外の日本語教育を取り巻く状況が非常に似ていることに驚きます。

著者は、ネットが出現する以前、広告はなかなかよく効いていたとしており、その理由を3つあげています。

1.広告が相手の手に渡りやすかった。
2.他に楽しいことが少なかったので喜ばれた。
3.相手が広告をちゃんと見てくれた。

まず1の「広告が相手の手に渡りやすかった。」ですが、著者は消費者が長い間お茶の間にいて、テレビCMや新聞広告をちゃんと見てくれていたことをあげています。

これ、「お茶の間」を「教室」に置き換えてみると、まったく僕たちの業界と同じですよね。たとえば僕が二日前に「日本ハンガリー会話サークル」というFacebookグループでおこなったアンケートでは、「主に自分で日本語を勉強している」「主に大学や学校などで日本語を勉強している」という選択肢で質問をしたのですが、解答者11人のうち、「大学や学校」を選んだのはたった一人で、残りは全員「主に自分で勉強している」でした。
https://www.facebook.com/groups/nikkoukaiwa/permalink/10152561472899976/
(Facebookのアカウントを持っていれば誰でも見ることができます)

もちろん、学校で勉強している人はこうしたSNS上のコミュニティを独習者ほど必要としていないから多少の偏りはあるかと思いますが、もはや日本語学習者は教室の中だけにいるのではないということは間違いようのない事実だといえるでしょう。

著者が指摘する、以前の広告の環境の2番目にある「他に楽しいことが少なかったので喜ばれた。」というのは、「楽しいこと」というと教育とは少し違うかもしれませんが、著者によればこれは「広告も消費者の情報取得の一手段として重要だった」ということです。ネットが発達する以前、海外の日本語教育においては、教科書や教師が貴重な、時には唯一の「情報取得の手段」だったわけですから、ここも全く同じですね。学校というのは、そこに行かなければ実質的に日本語を学ぶことができなかったから、学習者を引き付ける力があったわけです。しかし、今はネット上に無料の学習リソースがあふれていて、それ以上の価値を提供しなければ貴重な時間を費やして通学してくれるようにはなりません。

ネット以前の広告をめぐる環境の3つめは「相手が広告をちゃんと見てくれた。」ということだそうです。著者によれば「広告はまだ情報ソースとして信頼されていた」という意味だそうで、ここも海外の日本語教育においては非常に大きな共通点ではないかと思います。

というのも、2点目でご紹介したように、教師が唯一の学習リソースだったわけですから、教師は絶対的な権威だったわけです。たとえ間違った文法を教えても学習者はそれを検証することはできず、疑いを持つことはありませんでした。しかし、現状はどうでしょうか。たとえばたった3日前にはこんな動画がYouTubeに載っていました。

「Japanese language school - 日本語学校の辛い経験」
https://www.youtube.com/watch?v=cRvrKeksRpI

ここでは教科書に間違いが多いとか、教師の日本語が不自然だとか、いろいろな指摘がされています。それだけなら、まあ昔もいろいろな指摘はあっただろうと思いますが、注目しなければならないのはその伝播力です。たった3日前に公開されたばかりなのに、再生回数はすでに6万回を超えているのです。600でもなく、6,000でもなく、60,000回ですよ。そして、「いいね」を押している人は800人を超えています。動画の中には出てきませんが、コメント欄を読むと教科書名なども明記されています。

この動画の作成者は当時日本人と暮らしていたからその学校に対する違和感を持ったと言っていて、その意味では海外の日本語教育の現場とは違いますが、先に述べたように、こうした動画は海外の日本語学習者こそが見ているという点に留意する必要があります。

彼女の批判が正しいかどうかはともかく、この教科書を使っている学習者がこの動画を見れば、以前のように絶対的な信頼を置くことはなくなるでしょう。つまり、広告が無条件の信頼を失ったのと同じように、僕たちも「先生が言っているから正しいんだ」「教科書に載っているから間違ってないはず」という無条件の信頼は失ってしまっているのです。

また、先生に習った表現をすぐfacebookなどで使ってみて、日本人の友人に「そういう言い方は不自然」と突っ込まれることもあるでしょう。逆に、先生が「そんな言い方はしない」という表現が実際にはたくさん使われていることも、すぐに検証できてしまいます。たとえば「いなかったです」を間違っているとして「いませんでした」に訂正したりする教員を知っていますが、Googleを使えばたったの0.56秒で「いなかったです」に40,000,000もの例があることが分かってしまうのです。もちろん、「いなかったです」を「いませんでした」に訂正する教員にはそれなりに考えもあるでしょうが、しかし検索結果とは明らかに矛盾する説明をする教員を、学習者はどこまで信頼してくれるのでしょうか。

では、僕たちはどうすればいいのでしょうか。実はその答えもこの本の中に書かれています。

一つは「消費者本位」。

これは僕たちの耳に馴染んだ言葉で言えば「学習者中心」ですよね。でも、これだけだったらネット以前から言われていたことです。では何が違うのか。

それが2つ目の答えなのですが、それは「コミュニケーション・デザイン」です。

広告業界の「コミュニケーション・デザイン」がどういうものかはこの本に譲るとして、日本語教育の世界でやらなければならないことは、学校も教師も教科書も、学習者の出会うメディアの一つにすぎないということを自覚し、その上で、彼らの学習を総合的にデザインするということです。

そして、そのために必要なのが、本当の意味での「学習者中心」です。その学習者はどんな日本語能力が必要なのか。どんな学習スタイルを持っているのか。そういったことをとことん突き詰めて、その学習者にあった学習を総合的にデザインすることができるかどうか、それが今後、僕たちの業界が生き残れるかどうかにおいて、重要なポイントになってくるのではないかと思います。

そして冒険は続く。
posted by 村上吉文 at 13:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このエントリーをはてなブックマークに追加
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