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2014年05月29日

「考える前に検索する」のは悪いことなのか?

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス


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冒険家の皆さん、今日もエンジンの止まってしまった複葉機からパラシュートで脱出していますか?

さて、教育関係者の間で、よく「ネットで簡単に答えを探すのはよくない」という声を聞きます。図書館で百科事典を参照してレポートを書くのはよくても、ネットはだめだとか。そういう声を聞くたびに、僕はどうも納得できない気持ちになるので、今日はちょっとその点について書いておきたいと思います。
 
どうしてそう感じるのか、自分で考えてみると、いくつか理由があるように思います。ざっくり言うと、こんな感じです。
・「苦労=学び」なのか?
・「古いもの=よいもの」「新しいもの=悪いもの」なのか?
・評価の軸がずれている!

まずは、「苦労=学び」という考え方。いわく、「インターネットで検索するのは楽だ。アナログは苦労する。苦労しないと学びにならない」というような主張です。

僕は苦労することに意味はないとは思いません。特に、忍耐力をつけるには、ある程度の苦労をした経験が必要であることも同意します。しかし、忍耐力をつけることと語学力をつけることは全く別の話です。すでに忍耐力があって、これから語学力をつける必要がある人に、わざわざ非効率な方法を強いて忍耐力を育成する必要はありません。

そして、苦労すれば学習効果が高くなるという研究を僕は見たことがありません。非効率な方法のほうが身につくように感じることがあるとすれば、それは非効率であるがゆえに分母の数が少ないからではないでしょうか。要するに、一時間に一つの学習項目を理解する場合は、ほぼそのすべてが身につくかもしれませんが、一分に一つの学習項目を理解する場合は、もしかしたら半分ぐらいしか身につかないかもしれません。これは一見学習効率が悪いように思うかもしれませんが、この例なら、実は一時間に30もの学習項目を学びとして身につけることができるわけで、こうした場合は「非効率な学習のほうが身につく」というのは時間単位で見ても、学習量で見ても、明らかに間違いです。

「古いもの=よく知っている=よいもの」「新しいもの=得体が知れないもの=わるいもの」という先入観があることが少なくありません。言うまでもありませんが、古いものにも新しいものにも、いいものと悪いものがあるわけで、ネットをつかった学習方法に馴染みがないからといって、それが悪いものだと決めることは明らかに間違っています。

また、ボランティアならともかく、プロの教育関係者がそういうことを発言することに関して非常に違和感があるのですが、育成したい能力と、そのための課題の与え方がずれている例が少なくありません。

たとえば、試験の時に語彙や漢字を、ネットや辞書で調べてはいけないのが、今でも一般的ですよね。しかし、僕が英語やハンガリー語でメッセージやメールを送ったりするときには、そういうツールは常用しています。そういうことが苦手な場合は、有料で翻訳者に外注することも少なくないでしょう。どれも仕事としては普通のことです。(もちろん、仕事の場合は守秘義務とかそういう別の注意も必要ですけどね)

では、なぜ試験の時に同じことをしてはいけないのでしょうか。

よくある答えの一つが「それじゃ、話せるようにならない」ということです。ごもっとも。確かに、いちいち会話の途中で辞書をひくことはできませんよね。しかし、話せるようになることが目的なら、言葉を知っているだけではその能力を測れません。話せるようになることが目的なら、話せるかどうかを測定しなければならないのです。語彙や漢字を知っているかどうかではなくて。

「ネットや辞書を見ないで語彙や漢字の意味を答える」テストは、文字通り「ネットや辞書を見ないで語彙や漢字の意味を答える」能力しか測れないのです。そして、その能力を測るにはそれほどの意味はありません。実際に、期末試験などでそういう「知識を問う問題」だけは完璧に答えられても、実際には全然話せない学習者とか、見たことがありませんか?(その場合は、繰り返しますが評価方法に問題があるのですが)

むしろ、社会に出たらネット検索でも何でもして、英語やハンガリー語で手紙やメッセージを書かなければいけないことが多くあります。Googleの副社長だった村上憲男氏も、英文メールはコピペをよく使うと『村上式シンプル英語勉強法』に書いています。教育機関はそういう能力を育成する必要こそあれ、禁止する合理的な理由は私には見つかりません。そして、そういう能力を育成するには、試験や宿題で「ネットで検索しても人に聞いてもいいから答えを書け」と指定した方がいいのではないでしょうか。

「コピペじゃだめだ。成果が必要なのではなくて、過程が大事なのだから」と反論する人もいます。だとしたら、これも上の問題と全く同じ点で間違っています。つまり、評価すべきものを評価していないのです。この場合で言えば、「過程」を評価しなければならないのに、「成果物」しか評価していないわけです。成果物で評価すれば、そりゃ、過程なんて無視しても、効率的に成果を達成する方法を考えるのが普通ですよね。

前にも書きましたが、過程を評価するには、編集履歴などを見ることで簡単にチェックできます。僕はMSワードはあまり使いませんが、ワードにもそういう機能はありますし、Googleドキュメントでしたら、分刻みで誰と誰が編集したのかも確認できます。(参考資料をご確認ください)

また、別の問題として、「ネットで答えが見つかるから自分で考えない」という指摘もよくあります。これも、全く同じ問題です。ネットで答えが簡単に見つかるようなことを自分で考え出す必要はないのです。これがどれだけ馬鹿馬鹿しい話かは、時刻を推定する方法を考えてみると分かりやすいです。

たとえば時計が普及していない時代は、太陽の位置などを利用して時刻を推定していました。据え置き型の時計が普及した後も、懐中時計が普及して外出先でも時刻が確認できるようになるまでは、そうした自然現象から時刻を推定する技術は必要だったでしょうし、家の中で時計を見る前にも、「今は何時頃だろう」と自分の頭で考えてみる事が必要だったでしょう。

しかし、時計が普及した今では、そのようなことを自分の頭で考える必要は全くありません。自分で考える必要があるのは、時刻がわかっていることを前提にした「締め切りまでにあと3時間しかないから、どうやって課題を達成するか」などの、より高度な内容なのです。

今、「ネットで調べるから自分で考えない」と批判している人たちは、残念ですが、腕時計が普及しているのに「今の時刻を答えよ」という問題を期末試験に出題しているようなものです。ここは声を大にして言いたいのですが、ネットで検索できることを前提にして、もっと高度な内容を出題してください。期末試験では現在時刻を問うのではなく、時刻がいつでも分かることを前提にした、時間管理方法などを問うべきなのです。

以前でしたら、確かに語彙や漢字の意味を問う宿題や試験にはある程度の意味はあったと思います。なぜなら、リソースが極端に少なく、自分の個人的な能力だけで問題を解決しなければならない事が多かったからです。そのためには、「辞書を見るな」とかいう指示も必要だったかもしれません。

しかし今は逆で、身の回りにある武器を使いこなさないと生き残れない時代です。こんな時代に、わざわざ徒手空拳で戦う方法だけに限定して学習者を評価するのは、果たして妥当なことなのでしょうか。

もともと語学を身につけるには、大量の時間が必要です。非効率な方法を学習者に強いることは、その大量に必要な時間をさらに増やしてしまうことになるのです。ネットでも何でもいいので、答えが見つかるのでしたら、さっさと答えを見つけて、少しでも前に進むことが必要なのではないかと思います。

そして冒険は続く。

【参考資料】
むらログ: 『村上式シンプル英語勉強法』
http://mongolia.seesaa.net/article/274558140.html

むらログ: レポートのコピペ問題は「編集履歴」で一発解決!
http://mongolia.seesaa.net/article/275033229.html

 キャンパス全体で無線LANが利用できるというデジタルハリウッド大学。同大学の栗谷氏は、「特に大学生は問題の答えを求めるとき、自分で考えることをせず、インターネット検索で答えを探してしまう傾向がある」と現状を嘆いた。「インターネットは、答えそのものを得る手段ではなく、自分で答えを導き出すための情報を探す手段。インターネットの使い方に関するファシリテーションをする必要があると感じている」(栗谷氏)
http://techtarget.itmedia.co.jp/tt/news/1405/08/news04.html

posted by 村上吉文 at 11:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 主張 | このエントリーをはてなブックマークに追加
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