2013年08月12日

それは「リスク」であり、「温室」ではない。(2) 母語話者と喧嘩してしまうかも!

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス


July 2012 Niagara Falls High Wire Tight Rope Walker Jay Cochrane

先日、ソーシャル・メディアを使った学習の教育上のリスクに関して書いた時に、「汚い日本語を覚えてしまうリスク」と並んで「日本人と喧嘩してしまうリスク」もあると問題提起しましたが、こちらについて僕の考えを書く余裕がなかったので、ここで書いておきます。

一言で言ってしまうとこういうことです。

「リスクがなかったらおもしろくないじゃん」

もちろん、どのぐらいのリスクを取りたいかは人によって違います。綱渡りを趣味にしている人はきっと他の人よりリスクを取るのが好きなのでしょう。また、リターンによっても違いますよね。綱を渡りきれば宝箱があると分かっていれば、多少のリスクをとっても綱渡りに挑戦することもあるでしょう。

しかし、まったくリスクのないゲームっておもしろいですか? たとえば、大人が子どもと何らかのゲームをする時、大人に何のハンディも与えられなかったら、子供はもちろん、大人だって勝つと分かっているゲームをまじめにやる気はしませんよね。

ツイッターの先駆的な利用で著名な津田大介さんの著書『動員の革命 - ソーシャルメディアは何を変えたのか (中公新書ラクレ)』の中で、対談相手の宇川直宏さんがこんなことを言っています。
演出が施されていないスリリングなバイブはアドリブからしか生まれない。フリースタイルなので予定調和じゃない。即興だから「事故が起こるかもしれない」。すなわちスリリング。なので視聴率が伸びる。特に僕らのようなライブ・ストリーミングにおいて重要なのは「実験と偶発事故」を味方につけることなのです。「生」の現場においてはこのことが最も動員に関係していると思います。

ソーシャル・メディアで外国語を学ぶ場合も、まさにこれが醍醐味なのです。「実験と偶発事故」を敵に回して遠ざけてしまうのではなく、味方につけることが望まれます。外国語で書いた文章や、自分がしゃべっている動画をフェイスブックに投稿するとき、どんなコメントが返ってくるかはあらかじめ分かりません。何人が「いいね!」ボタンを押してくれるかも分かりません。分からないからこそドキドキするのです。その感覚を大切にするべきだと僕は思います。

もちろん、教室で何かを発言するにしても、どんな反応が返ってくるかは完全には予想できません。しかし、教室では普通、まわりは学習言語の母語話者ではありません。多くても母語話者の教員が一人いるかどうかです。また、同級生はみんな同じ学校に通う、同じ世代の同国人であることがほとんどでしょう。かつ、学習者の発言を聞くのはそれは授業の一環だからであって、自分の意志によるものではありません。

ソーシャル・メディアの場合は、投稿を誰と共有するかによって違いますが、学習言語の母語話者に限定してその投稿を共有すれば、反応は母語話者からしか返ってきませんし、その人達も基本的には学習者を自分の意志で友達として登録しています。また、嫌だったら読まないので、見てくれる人はそれを読むという行為を主体的に選択して行なっているのです。同じ「外国語で発言する」という行為でも、教室で練習として発言するのと、ソーシャル・メディアに投稿するのでは、その意味がまったく違うのです。

ソーシャル・ネットワーキング・アプローチ(SNA)という考えの名付け親でもある當作靖彦先生は、そのご著書『NIPPON3.0の処方箋』の中で、外国語教育を水泳の練習にたとえ、畳の上で手足を動かし水の中で泳いでいるのと同じことをしてみるのがコミュニカティブ・アプローチだとした上で、以下のように書いています。
ロールプレイングは人工的場面をクラスに作り出してsimulationしているだけですから、本当は「実際」ではありません。(中略) これに対し、ソーシャル・ネットワーキング・アプローチは、まずプールや海に放り込んでみよう。水を経験させてみよう、とするアプローチです

念のために書いておくと、溺死するリスクや溺死しそうになる恐怖を学習者に与えることはもちろん防がなければなりません。ブラック企業などでは新入社員に本当にそういう扱いをしているところもあります。しかし、ソーシャル・メディアでは共有範囲の設定やブロックなどの方法の指導を適切に行えば、そこまでのリスクはありません。その一方で、ソーシャル・メディアに投稿することは、畳の上で手足を動かして水泳を学ぶような予定調和の世界から、一気に魚と一緒に水の中の世界を泳ぐようなリアルな皮膚感覚を体験させてくれる世界へと変えてくれるのです。

もちろん、皆さんが学習者でなく教師で、自分の学習者が高いリスクにさらされていると判断できる場合は、何らかの指導を行ったほうがいい場合もあります。例えば僕自身も、エジプト革命直後にツイッターを使って日本語を学ぶという授業を受け持っていた時、特定の集団に対する評価が日本とエジプトで正反対になっていたように思えたので、「このグループは日本では革命派の代表だと思われているので、批判すると旧ムバラク政権を支持しているように聞こえるだろう」というようなことをあらかじめ言ったこともあります。(村上吉文「ソーシャルメディア時代の日本語学習」『言語と交流』2012)

ですから、あらかじめ母語話者との関係が悪くなるようなリスクが明らかな場合は、わざわざそれを放置して学習者をリスクに晒す必要はないとは思っているのですが、しかし、だからといってそうしたリスクを恐れるあまりに、ソーシャル・メディアの使用を禁止したり、あるいはすべての投稿をあらかじめ講師が検閲ようなことはするべきではありません。ソーシャル・メディアはリアルタイム性が命なので検閲にかかる時間だけで鮮度が落ちてしまいますし、この記事で何度も書いているように、そもそもそれではどんな反応が返ってくるかどうか分からないというドキドキ感がなくなってしまうからです。

ソーシャル・メディアで外国語を学ぶ場合、母語話者と衝突してしまうようなリスクはたしかに存在します。でも、だからこそリスクのない予定調和の勉強よりも、ずっとスリリングでおもしろいのです。ぜひ、みなさんも「実験と偶発事故」を味方につけて、21世紀のスリリングな学びを体験してみてください。
posted by 村上吉文 at 09:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語hacks! | このエントリーをはてなブックマークに追加
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