2013年08月08日

それは「個別化」であり、「大量生産」ではない。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス


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先日は僕の理想としている語学学習に近い一つの形としてソーシャル・ネットワーキング・アプローチ(SNA)という考え方をご紹介しました。これなら今すぐにでも取り掛かれるかもしれないという意味で、非常に現実的で、無理のない提案だと僕は思っています。

「現実的」というのは、既存のシステムの中でも使えそうだという意味でもあります。

そこで今日はもう少し過激に、既存のシステムに合うかどうかとか考えずに、理想論を語ってみたいと思います。言い方を変えれば、既存のシステムがどうして破壊されてしまうのか、とも言えるかもしれません。

特に重要なのが、ソーシャル・メディアで語学を学べば、今、語学学校で中心的に行われているような大量生産型の教育は必要なくなるということです。つまり、もっと個別の学習が可能になります。

僕もいろいろな学校で教えてきましたが、市民講座のような一般市民が対象の場合、一年で3分の1ぐらいまで学習者の数が減ってしまうような例が少なくありません。理由はいろいろあるでしょう。たとえば・・・
・先生がうざい。
・レベルについていけなくなった。
・会社や学校のスケジュールが変わってしまって、その時間に来られなくなった。
・もっと違う方法で勉強したい。

その一方で、残っている学習者に聞いてみると、こんな声が聞こえることがよくあります。
・先生が好き。
・仲間がいるから続けたい。

■ 先生がうざいと言われても・・・
一つ一つ見てみましょうか。
まずは先生の件ですが、要するに、一般市民講座などのようにいつでもやめられるコースに通っている場合、先生と相性のいい学習者は学習を続ける機会を与えられますが、そうでない場合はやめてしまうのです。同じレベルで複数のクラスがある場合などは別のクラスに移籍することなどもできますが、海外では同じレベルに一つしかクラスがないようなことも少なくありません。

しかも、その教師の授業が上手か下手かという問題なら、教師の方に改善を促すこともできますが、今の学習者は本当に多様で、それなりに経験のある先生の場合でも、合う学習者と合わない学習者がいたりするのです。つまり、「相性」の問題としか言えないようなこともあります。

では、この問題は解決できないのでしょうか。

僕がよく引用するウィル・リチャードソンは、こんなことを言っています。
Inherent in the collaborative process is a new way of thinking about teaching and learning. We must find our own teachers, and they must find us. In fact, in my own kids' lives, I believe their best, most memorable, and most effective teachers will be the ones they discover, not the ones they are given.
http://www.edutopia.org/collaboration-age-technology-will-richardson

試訳
協同的な課程に本来備わっているのは、教育と学びについての新しい考え方です。私たちは自分の教師を見つけなくてはならず、彼らも私たちを見つけなくてはならないのです。実をいうと、私の子どもの世代では、彼らの最高で、忘れられない、効果的な教師とは、(学校によって)与えられた教師ではなく、彼ら自身が発見した教師になると、私は信じています。


また、『ウェブ進化論』で梅田望夫はこんなふうに言っています。
SNSは巨大な人間検索エンジンだ

SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)はソーシャル・メディアの中の一つの形態に過ぎませんが、ブログなども含めたソーシャル・メディア全体についても、同じことがいえると思います。実際、僕がウィル・リチャードソンを知ったのもSNSではなくて彼のブログでしたし。

つまり、SNSに限らず、ソーシャル・メディアを使って勉強する場合、学習者は一人の先生を勝手に与えられるようなことはなく、自分にピッタリ合った先生を見つけることができるのです。もともと教師などなくても勉強できる場合も少なくありませんが、「この先生についていきたい」と思うような出会いもソーシャルメディアにはいくらでもあります。

■ 大量生産だから落ちこぼれる
次に進度の問題です。要するに「出張している間に欠席したら、クラスのみんなについていけなくなった」とか、あるいは「こんな進度の遅いバカどもと一緒になんか勉強できるか」とかいう問題です。

僕自身も高校の時に交通事故で入院してしまって、入院中も教科書で勉強していたのですが、数学だけ教科書の順番と違う進み方だったのを知らず、落ちこぼれてしまったことがあります。自分だけ分からないと自分のためにだけ先生の時間を使うのは申し訳ないし、だいたい恥ずかしいので、分からなくても質問なんてできないし、そもそも「分かりましたかぁ?」という質問に「いいえ、分かりません」と答える勇気なんてとてもありませんでした。実を言うと僕はそれまで理系の人間だと思っていたので、進路もそちらを考えていたこともあったのですが、そうした経緯があって語学の方に興味をもつようになりました。

市民講座のような日本語学校なら、落ちこぼれたらやめてしまえばいいので、まだ問題は簡単ですが、公教育などではそういうわけにも行かないので本当に悲惨です。分からないまま、自分はダメな人間だと思い続けて何年もクラスにいなければならないのですから。

しかし、僕がハンガリー語を勉強しているように、ソーシャル・メディアで語学を学ぶ場合、誰かがカリキュラムを作って強制してくることはありません。ですから、落ちこぼれてしまう心配は全くありません。もちろん、勉強をやめてしまえば成長もないのですが、それだってソーシャル・メディアでいくらでも尻を叩いてもらうこともできます。たとえば、僕は使っていないのですがサポタ(sapota.jp)というサービスがあります。これは「行動契約書」という名前で学習の予定を登録して、それを実行しなかったら、サポーターになってくれているソーシャル・メディアのお友達に「村上がハンガリー語の勉強をしなかった」などと連絡が行く仕組みになっています。

もちろん、こういったサービスを利用しなくても、「自分はこれから週3回ハンガリー語の語彙を覚えて、それをここに報告します」などとソーシャル・メディアで宣言することもできます。宣言してしまうとなかなか後には引けないし、「あれ?勉強しなかったの?」などと友達に突っ込まれることにもなりますから、勉強を持続するためにはかなり効果的です。

また、ここでは進度の問題として落ちこぼれの対応ばかり書いてきましたが、その反対に自分が本来持っている能力に合わない、遅い進度でしか学ぶことができないという、いわゆる「浮きこぼれ」も大きな問題です。もちろん、落ちこぼれの方がずっとストレスも多いと思うので、落ちこぼれに比べてあまり認知されていないのも理解はできるのですが、日本は現場は優秀なのにリーダーがダメというパターンがよくありますから、優秀なリーダーを育てるためにも、きちんと「浮きこぼれ」の問題にも対処する必要があります。

そして、言うまでもなく、ソーシャル・メディアで学べば、自分で好きなペースで学ぶことができるので、「浮きこぼれ」の問題もなくなるのです。

■ 時空からの解放
次に、「会社の都合で勤務時間が変わって、授業に出られなくなってしまった」などの学習者の都合による問題です。一般の一斉授業型の授業をしている場合、これは致命的です。その学習者一人のためにクラスの他の全員が違う時間に勉強するようにスケジュールを変更するなんて、まず無理ですから。教室がすでに埋まっている場合、変わりたい時間に教室を使っている別のクラスの皆さんのスケジュールまで調整して出て行ってもらわないと、授業時間の変更なんかできません。

それでは、ソーシャル・メディアを使って勉強する場合はどうでしょうか。
これは、ソーシャル・メディアをどのように使っているかによって、対応が変わります。
まず、僕がハンガリー語を学んでいるようなスタイルの、完全な独習の場合です。この場合は、自分の勉強の時間さえ確保できれば、それが何曜日の何時でも勉強を続けることはできるし、リアルタイム性のあるソーシャル・メディア(たとえばハングアウトなど)でなければ、ほとんど問題ないと言えます。

しかし、実はソーシャル・メディアはクラス単位でも使うことができるのです。従来の一斉学習ではなく、学習者が自分で学習計画を立て、計画に変更を加えながら学習をし、最後に自分で評価もするというタイプの授業です。クラスは学習コミュニティーとして機能しますが、学習者がそこで学ぶ内容や進度は一定ではありません。こういうスタイルの授業を「自律学習」といい、日本では桜美林大学などが有名です。

こうした自律学習のクラスの場合は、オンラインでもFacebookなどにコミュニティが併設されていることが少なくありません。もし一斉授業であればたとえオンラインにコミュニティがあってもあまり助けにはなりませんが、自律学習の場合はクラスには行けなくても、自分のペースで学習をつづけ、コミュニティ効果だけはFacebookなどで活用する、ということもできなくはありません。

■ 「オレがオレが」問題
次に、学習スタイルやニーズの問題もあります。
例えば初級から日本語をどんどん母語話者と使って、そこからどんどん語彙を増やしていきたいという学習者もいれば、中級はもちろん上級までちゃんとした教科書で勉強したいという人もいます。
また、まずは全体像を大雑把に見てから、1課ごとに細かく勉強したい人もいれば、全体像なんて必要ないから最初から細かく勉強したいという人もいます。例文や場面などから類推して自ら気づくのを好む学習者もいれば、さっさと説明してくれと学習者もいます。

ニーズの問題としては、たとえば書くという技能だけに限定しても、日本語を手で書く必要がある学習者と、パソコンでタイプする必要しかない学習者と、そもそも書く必要のない学習者がいます。

ソーシャル・メディアを使って学ぶ場合、上に書いたように自律的な学習になりますから、基本的に学習スタイルもニーズも自分に合わせることができます。

ときどき、ソーシャル・メディアは文字のメディアだと勘違いしている人がいますが、Googleのハングアウトのように顔を見ながら話すこともできますし、Facebookもスカイプと連携して同じようなことが可能になっています。つまり、ソーシャル・メディアで学ぶ場合でも、文字学習のニーズのない人や逆に文字でしかコミュニケーションする必要のない人などの多様なニーズに対応することができるのです。

■ なぜ今でも一斉授業なのか
このようなことが可能になっているのに、今でも残念ながら一斉授業のほうが一般的で、ソーシャル・メディアによる学習はおろか、自律学習すらまだマイノリティです。それはなぜなのでしょうか。僕が思うに、理由は主に3つあります。

まずひとつはソーシャル・メディアというもの自体が2006年に注目を浴びるまでは一般人に知られていなかったこと。もちろん、もうすでに7年も経っているんですが、日本語教育にかぎらず教育界というのは変化しないことによって学習者に甚大な被害を与えることには信じられないほど寛容な世界なので、7年というのはまだ短いのかもしれません。40年前にはヨーロッパで生まれていたコミュニカティブ・アプローチでさえ、実際に語学教育の現場に受け入れられるようになったのは日本でもごく最近で、世界の多くの地域ではまだ新しいというような印象を持っている人が少なくありません。ですから、ソーシャル・メディアが学習の主体になるのには、まだまだ時間がかかるとしても不思議ではありません。

理由の2つ目は、学習者が多様化していなかったというのもあると思います。今でも途上国に行くと、郊外の工場にむけて従業員を乗せたバスが走っているのを見かけることがありますが、みんな同じような服を着て、同じような歳の女の子ばかりだったりします。皆さんそれなりに楽しそうだからいいのですけど、日本の女工哀史などの時代にもそのような工場で大量に雇われていた人たちがいて、みんな同じ仕事をしていたわけです。大量生産の時代には、できるだけ同じ規格で同じ製品を作らなくてはなりませんから、人員も代わりが効くように、個性よりもみんなと同じ事が尊重されていたのでしょう。

そういう時代には、学習スタイルもニーズもだいたい共通しているものですから、もちろん、授業も一斉授業でよかったことは想像にかたくありません。というより、代わりが効く、他の人と同様な人材を大量に育てることが教育界にも求められていたのです。

理由の3つ目はリソースの問題です。たとえば教科書。日本語を勉強するにしても、地方の書店においてある日本語の教科書なんて、今でもほとんどありませんよね。しかし、インターネットを使えばアマゾンには多種多様な教科書が並んでいて、お金さえ払えば、ほんの数日で家まで届けてくれます。また、お金がなくても、インターネットには体系的に日本語を学べるサイトが数えきれないほど開設されています。

多様なニーズや学習スタイルにも対応していて、日本語の読み書きを習いたくないなら、ローマ字だけで勉強することもできますし、ベトナム語やアラビア語のような言語で日本語を学ぶこともできます。

しかし、このように多様な教材が手に入るようになったのは、ついここ数年の間のことなので、それ以前に組織の根幹が固まってしまった所では、今でも対応することができないのでしょう。

■ 仲間がいるからクラスに来るというなら・・・
さて、今日の記事の最初のほうで、クラスに残ってくれる学習者の声として「仲間がいるから」というのがよくあるということをご紹介しました。つまり、一斉授業に残ってくれる学習者は、そこで教わる内容よりも、むしろコミュニティとしての機能を期待して学校に来るのです。

しかし、実はまさにその部分こそがソーシャル・メディアの利点なのです。そもそもSNSはそうした社交活動をオンラインでできるようにしたものですし、自分に近い趣味の学習者を探しだすことも簡単にできます。たとえば映画で日本語を学ぶのが好きな学習者の場合、同じ学習方法を好む人を見つけることはもちろん、自分の好きな映画がかなりマイナーなものであったとしても、その映画を使って日本語を学んでいる人を見つけることも簡単にできます。

例えば私の場合、1956年のハンガリー動乱を描いた「君の涙、ドナウに流れ」というハンガリー映画はエジプトで体験した風景とダブってしまって何度見ても感動してしまうのですが、ちょっと検索するとやはりこの映画でハンガリー語を勉強している人が見つかります。
http://www.tennisforum.com/showpost.php?p=18793555&postcount=75 (「Szabadság, szerelem」というのが原題です)

■ 終わりに
先日は、僕がよく言っていることはSNAという考え方に重なるところがあるということを書きました。同じように、今日ここで僕が書いたことは、上にも紹介しましたが「自律学習」という考え方に非常に近いです。もっとも、ソーシャル・メディアを使えば、自律学習で言われる、教室のコミュニティ機能ですら不要になってしまうと僕は思っているので、もっと過激かもしれませんが。

ご関心のある方は、ぜひ「自律学習」というキーワードで論文なり、実践書などを読んでいただければと思います。あまり小難しくない実践的な本では桜美林大学の『自律を目指すことばの学習 ―さくら先生のチュートリアル―』がおすすめですね。
posted by 村上吉文 at 18:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このエントリーをはてなブックマークに追加
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