2013年08月04日

なぜ、ソーシャル・メディアなのか。

クリエイ
ティブ・コモンズ・ライセンス


Schulknabe mit iPad, after Albert Anker

先日、僕がどうして日本語教育におけるICTの可能性を感じるようになったかを書きましたが、教師としての話とは別に、学習者にとってのソーシャル・メディアについてももう少し書いておきます。

僕はJICAや国際交流基金の仕事でモンゴル、サウジアラビア、ベトナム、エジプトなどと英語圏以外の国に派遣されているのですが、そうすると、当然、英語以外の言語を学ぶ機会に触れることになります。モンゴル語だけはJICAの訓練所で勉強できましたが、国際交流基金の場合はそういう訓練のプログラムはなく、代わりに語学研修の経費を受給できることになっています。JICAと違って基金の場合は語学教育の専門家ばかりだったりすることもあり、自分でどうやって勉強するかを考えるわけですが、僕の場合、それなりに満足できたこともあれば、まったく成果が出なかったこともありました。

いちばんダメだったのはベトナム語で、タクシーに乗って「窓を閉めてください」というのが特に通じなくて何度も悔しい思いをしました。窓の開いているガラスを指で叩きながら、「まどを、しめて、く、だ、さ、い!」と言っても通じないときは全然通じないのです。それだけではなく、通じない上に「ああ?」とか聞き返されることもあります。まあ、ベトナム語では「ア」は丁寧さを表すので、日本語の「ああ?」という返事とはかなりニュアンスが違うことは頭では分かるのですが、通じなくて悔しい思いをしている時にこれを食らうと、なかなかこたえます。

このように、勉強してもダメな言語は全くダメなのですが、必要に迫られてとにかく勉強だけはしてきたわけです。自分自身の失敗例も含めて、学習者として、いくつか考えたことがあります。

一つは学習者はわがままだということです。例えば・・・

僕がすでに知っていることは説明しないでほしいのです。
また、僕に説明してもどうせ分からないようなことは説明しないでほしいのです。
僕が仕事で使わないような語彙は教えないでほしいのです。だって僕は家の中で現地語を使ったりしないのですから。
前の授業で練習したことについて、前の授業に休んだ奴が質問しても、教師はそれに答えないでほしいのです。僕にとっては時間の無駄ですから。
でも、僕が授業を休んだときは、ちゃんと次の授業でもう一度僕のために説明してほしいのです。だって僕は忙しいんですから。
僕のために、僕の好きな生教材を使って授業をしてほしいのです。他の誰かが好きな生教材だと僕にとって面白いかどうか分からないので、僕がリクエストした生教材だけを使ってほしいのです。

うーむ、あらためてひどい学習者ですよね。
でも、本音を言えば、みんなそうじゃありませんか?
もちろん、「フランス語を勉強しているわたくしって美しいワ」とかいう自己満足のために勉強している人がいることも知ってはいますが、お金を払って勉強しに来る人達というのは、基本的にその言語で何らかの目的を達するために、コミュニケーション能力を身につけたいのです。それ以外の時間はなくても済むのならなくしたい。それが本音ですよね。

そして、そういうわがままな学習者の欲求を満たすには、今の教室型の学習というのは、あまりにも効率が悪すぎます。

それで、あるときから教室で学ぶのを諦めて、独習中心に切り替えたことがあります。今や、本屋さんにはもちろん、インターネットにもアラビア語やベトナム語、ハンガリー語、モンゴル語のようなかなりマイナーな言語を無料で勉強できるオンライン教材が山ほどあります。媒介語で日本語が使えるものに限定しても、少なくとも上に挙げた言語ならどれも無料で勉強できます。夢のような時代ですよね!

独習ですから自分のペースで勉強できますし、自分よりレベルの高い人の難しい質問に先生が占有されることもありません。好きな時間に勉強できるし、教室まで通う時間も必要ありません。

まさに夢のような時代がやってきた!

・・・と思っていたのもつかの間、実はすぐにこれじゃダメだな、と思い始めました。なぜなら、独習で勉強していると、どうしても勉強時間を確保できないのです。勉強しなくても困るのは自分だけですが、僕が授業の準備をしないと学生が困ることになります。おまけに自分も恥ずかしいし。そうするとついつい、仕事が忙しくなってくると勉強の時間を他の作業で使ってしまうようになります。これは端的に言ってしまうと、モティベーションの問題ともいうことができます。いつの間にか学習動機が弱くなってきていて、それに気づかずにいると、このようにどんどん目の前のタスクに学習時間が奪われていくのです。

それから、これも大事なポイントでしたが、分からないことが出てきた時に、質問をぶつける相手がいないのも独習の大きなデメリットですよね。

それが、ベトナムに行っていた2008年ごろでしょうか。オンラインに独習用のコンテンツはあり、日本人がベトナム語を学ぶための文字の資料も音声も動画もある。でも、できないんですよねー。

しかも、そこにあったのは僕のために用意されたものではありませんでした。当たり前ですが、学生や社会人を対象にした一般的な内容なので、僕には必要ではないと思われる場面などもたくさんあったのです。

そこで僕が考えたのが、日本語の上手なベトナム人の学生さんに協力してもらって、ベトナム語と日本語の対訳で書かれた仕事上の資料を見ながら、知らない単語を教えてもらうという方法でした。これは最小の投入時間でそれにふさわしいリターンはあったものと思います。上にも書いたとおり発音はさっぱり伸びなかったのですが(だって書類しか勉強しないんだから当然ですよね)、ベトナム語は文字は簡単なので、仕事に使う文字資料は、少なくとも「捨てていいか、時間をかけて目を通すべきか」という判断ぐらいはできるようになりました。

ただ、モティベーションが上がったかというと、そうでもないんですよね。学生さんに来てもらうので、その時間はさすがに仕事などはしないで勉強に集中するのですが、生活の中にベトナム語学習の時間が根付いているというイメージではありませんでした。

そこでだんだん分かってきたのは、先生がいるだけでもダメだということです。何が必要なのかというと,同志です。一緒に勉強する同級生というか。

そこで、次に派遣されたエジプトでは、facebookなどにアラビア語で書き込みをするようにしてみました。と言っても最初はなぜか敷居が高くて、なかなか書き込めなかったのですが。実は以前にもサウジアラビアに派遣されていたことがあってそこでもアラビア語は勉強していたし、エジプトでもベトナムと同じように日本語の上手なエジプトの学生さんに協力してもらって、個人授業のようなこともしていたのですが、それでもアラビア語でソーシャル・メディアに書き込むのはすごく勇気が必要だったというか、とにかく敷居が高かったんですね。その理由の一つはアラビア語入力が画面の右から左に流れていくかなり特殊なものだったので、なかなかアラビア語入力ソフトをパソコンにインストールする気になれなかったという事情もあります。

しかし、ある日、本当に勇気を振り絞ってアラビア語入力ソフトを入れてみたら・・・何と、世界が変わったんですよ! ほんとうに世界が昨日とは全く別の姿で僕には見えました。あの時の感動というのは、なかなか人に理解してもらえないのですが、僕と周りのエジプト人の間にあった何らかの透明な壁が、急に崩壊して足元に破片が散らばっているような感覚でした。

街を歩いていても、知らないおばさんも水タバコ屋のおじさんもみんな友だちのような。

というのも、僕にはFacebook上にエジプト人の友達が何人もいたからなんのですが、普段はこちらから日本語学習者のための情報などを提供しているだけでした。ですから基本的にはエジプト人の友人は情報を受信する姿勢だったのですが、でも、アラビア語でなら、たとえば「息子がこういうゲームのソフトを探しているんだけど、どこで売ってる?」とか書くと、すぐにいろいろな情報を教えてくれるのです。

そうすると当然、お礼のメッセージなども書かなくてはならないし、おまけに相手のコメントにも知らない単語がずいぶんあるので、調べていくうちに語彙も増えていきます。

「これだ! 自分が求めていたのはまさにこれだ!」
当時の感覚はまさにそのようなものでした。ある程度の学習環境さえ作ってしまえば、苦労して教室に行かなくても、教室の方がこっちに飛び込んでくるようなイメージです。

今はアラビア語よりもハンガリー語の方が必要に迫られているのであまり勉強できていないのですが、少なくとも、こうしてソーシャル・メディアを使えばどこにいても語学の勉強ができる時代が来ているのだということはアラビア語の学習を通してまさに身を持って体験することができました。

そこで、ハンガリー語を勉強することになって、最初にしたことは、ハンガリー語の話者をFacebookでさがすことでした。それまでは教材を探すのが第一だったのですが、大事なのはコミュニケーションの現場を見ることとか、伸びてくればその相手とハンガリー語でコミュニケーションすることなので、大切なのは教材ではないのです。

他のところにもいろいろ書いていますが、Facebookのリストという機能を使ってハンガリー語関係者だけの発言が見られるURLをブラウザのブックマークに入れておくと、そこを開くだけでハンガリー人たちのコミュニケーションが見られますし、そこに書き込めばハンガリー語話者だけに限って読んでもらうこともできるのです。「今日はどこそこへ行った」「明日から新学期」などと、初歩的なハンガリー語で書くだけで、誰かが「いいね!」を押してくれたりもします。また、たとえば命令形などの特定の表現を学ぶと、それを使った例文をGoogleで探して、その日本語訳を書き込んだりもしました。解釈が違っていると教えてくれることもありましたし、ハンガリー語の大家がコメントしてくれることもありました。

また、ハンガリー語を学ぶ日本人と日本語を学ぶハンガリー人のグループにも入って、分からないことを教えてもらったりもしました。

そこで、思い知らされたのは、ベトナム語をオンラインで学んでいたときは、実は教材ではなくモティベーションが大きな問題だったのではないかということです。今回ハンガリー語のために使っている大阪大学のオンライン教材はハンガリーにやってきた日本の女子留学生が主人公なので、大学やホームステイ先、買い物先などが主な舞台で、僕が必要としている職場でのコミュニケーションなど全く出てきません。敢えて言えば指導教官との会話はちょっと近いかもしれませんが。しかし、ハンガリー語の方が勉強が続いているのは、やはりソーシャル・メディアで学習状況をハンガリー語話者と共有できているというのが大きいように思うのです。

半年ほどかけてとりあえず最後まで上記の阪大の教材で勉強してみて、その時点で初めてハンガリー語で話してみた時の記念動画がありますのでご紹介します。
http://www.youtube.com/watch?v=9WrGlMZ_9gk
読む勉強と聞く練習だけして、話す練習をしたことがない時点での動画なので、まあ、間違いもたくさんありますがご容赦ください。

しかし、みなさんにご留意いただきたいのは、僕はハンガリー語の学校に通ったこともなく、体系的に先生から習ったこともなく、紙の教科書も持っていないということです。全ては阪大のサイトとソーシャル・メディアでした。ソーシャル・メディアが学校であり、ソーシャル・メディアの友人が先輩であり、同級生であり、ボランティアの先生だったのです。

46歳の多忙な社会人であり2児の父でもある僕ですら、この程度は勉強できるのです。吸収力のある若者が勉強に専念できる環境にいれば、一体どれほどのスピードで上達するのでしょうか。

今や、語学学習のカタチははっきりと変わりました。若者の多くはそれに気づいていますが、教員の側はほとんど気づいていません。そのために、学校の授業も旧態依然としているところが少なくありません。繰り返しますが、ソーシャル・メディアが語学学習にもたらすインパクトは、カセット・テープがICレコーダーになったとか、OHPがパワーポイントになったとかいう瑣末なレベルの変革ではなく、教育の現場を根底からひっくり返してしまうような、すさまじい力を秘めているのです。学校も教員も要らない時代が、もうすぐ来るのではなくて、すでに来てしまっているのですから。

僕の一連のブログ記事を通して、日本語学習の現場でソーシャル・メディアの可能性に気がつく教員が増えて、少しでも前に進むことになってくれれば、とても嬉しいです。

posted by 村上吉文 at 10:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語hacks! | このエントリーをはてなブックマークに追加
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