そりゃ、当然ですよね。
昔なら、海外ではネイティブと話せるというだけで価値のあることでした。ですから、日本語教授法も何も知らなくても、ただ単に日本人であるというだけで、日本人の少ない地域では先生になることができたのです。しかし、今ではLang-8のように作文を無料で添削してくれるサービスもありますし、スカイプやGoogleハングアウトを使えば日本にいる日本人と日常的に会話の練習をすることもできます。
要するに、海外の、特に途上国まで来てくれるというだけで日本人が価値を認めてもらっていた時代は終わりつつあるということです。
もちろん、日本人は価値がないというわけではありません。というのも、スカイプなどで話してくれるのは、やはり「日本語が話せるだけ」という普通の日本人であることが多いからです。それ以上の価値を持っている人なら、当然、現地にいることに価値はあります。たとえば、現地語ができるとか、あるいは日本語教授法をしっかり身に着けていて、プロとして授業ができるとか。
一方、現地人教師に関しても、インターネットの余波は及んでいます。
というのも、以前は教師だけがすべてのリソースでした。作文の添削にしても、「日本人はこんな表現はしない」といえば、学生はそれを検証する事は出来ませんでした。また、文法的に間違っている例文を教えたりしてしまっても、学生はそれをそのまま覚えてしまうしかありませんでした。
しかし今では、インターネットで普通に日本人とコミュニケーションができます。先生に習った表現をそのまま使って、日本人に「それは日本語として間違っている」と言われてしまうこともあります。また、「日本人はそんな表現はしない」と言われたフレーズを検索してみると、実は普通に日本人が使っていることがすぐに分かってしまうということもあります。
つまり、権威主義的に「自分は間違わない」と無謬性を主張する先生でも、すぐにその実力が暴露されてしまう時代になっているのです。
しかし、言うまでもなく、現地人の日本語教師には大切な役割があります。たとえば学習者と同じ言語を話すので、彼らの間違いを予測しやすいとか、媒介語で説明できるとか、学習者にとってのロールモデルになりうるとか。
そうしたメリットを利用しながら、かつ母語話者にしかできないところはLang-8などに任せることができるかどうか。現地人の日本語教師にとっては、そこがひとつの試金石になるのではないかと思います。というのも、こうして外部に任せるのは役割の低下になりますので、権威主義的な教員にとっては致命的なのです。
こうして見ていくと、結局のところ、インターネットを教育に持ち込めるかどうかというのは、権威主義と学習者中心主義との戦いになるのではないでしょうか。学習者主体を受け入れることが出来れば、自分の役割を低下させても、ウェブなどのツールも使えるはずです。いかし、残念ながら自分の権威を守ることを学習者の成長よりも優先してしまう教師もいないわけではなく、こうした教師の存在こそが進歩を阻害してしまいます。
とはいえ、遅かれ早かれ、学習者の多くがネットリテラシーを持つ時代はやがてやってきます。そうすれば、本当に実力のあるごく一部の教員を除いて、インターネットがない時代の情報の壁を利用して権威を守ってきただけの教員は、教授法も知らない日本人教師と同じ。学習者にインターネットが浸透してくれば、すぐにその足場を失ってしまうことは目に見えています。
まとめてみると、海外にいる日本人であっても、日本語が話せるだけで食ってきた日本人はネットに淘汰されてしまうでしょう。海外の現地人教師の場合は、権威主義から脱却し学習者主体を受け入れることができる教師は生き残ることができるでしょうが、情報の壁を利用して権威を守ってきた教師は淘汰されてしまうことになると思います。
タグ:日本語教育
あとは、こうした環境の中で日本語教師がいかにプロとしての実力を高め、発揮していくか。そして、この時代に合ったビジネスモデルを業界としていかに構築していくか。
特に、後者については、後進のためにも我々中堅どころが頑張らなければならない部分かなと思います。