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1999年06月15日

砂の国の日本語教育54

 僕は今まで自分を偽ってきました。自分に対しては常に正直でしたが、周りの目を気にして本当の自分の姿を隠し続けてきたのです。そうする方が社会に受け入れられ、仕事も生活もしやすいことが分かっていたからです。

 しかし・・・そんな自分の態度に、僕は次第に疑問を覚えるようになってきました。自分はただ他の人と少し違うだけだ。誰にも迷惑はかけていない。それなのに、安穏な生活を続けるために、本当の自分を隠し続けることが、人として正しいことなんだろうか、と。そして僕は決心したのです。世間に本当の自分の姿をさらけ出すことを。つまり、告白するのです。

 自分が進化論を信じていることを。



 ああ、しかし、僕はあまりにも卑怯者でした。「明日、明日こそは」と思いつつ、結局、僕の離任前の、最後の授業の日になってしまったのです。



 チャールズ・ダーウィンを知っているかと訊いたとき、学生のほとんどはポカンとしていました。進化論にあたるアラビア語を言うと、何人かは知っている学生がいて、彼らの一人がアラビア語で他の学生に手短に説明します。それを聞いて、いちばん保守的な学生が笑い出しました。「何だって? 人はサルから生まれたというのか? そんな馬鹿な」と言ったようでした。

 日本に二週間だけ滞在したことのある学生が、次に発言しました。彼が日本の博物館で見た絵というのが、いちばん左にサルがいて、徐々に直立して人類になるという、日本人なら誰でも知っている進化の絵です。「本当にバカみたいだと思いました」。この時点では、彼らは「頭のいい日本人の中にもバカはいるんだなあ」という程度にしか認識していません。

 僕は慎重に言葉を選んで、言いました。「私もダーウィンの言ったことを信じています。」

 一瞬しーんと教室が静まりかえります。緊迫した数秒の後、今の発言が全く聞こえなかったかのように学生の一人が「先生、今何時ですか」と訊いてきました。ほっとしたように別の学生が時間を言い、「のどが渇いたなあ」「腹減ったなあ」と和やかな空気が流れ始めます。僕はそれを断ち切るように、もう一度はっきり言いました。

 「私はダーウィンを信じています」

 再び緊迫した数秒が流れます。「私だけではありません。普通、日本人はダーウィンを信じています」 これは嘘ではないし、日本語専攻の学生に隠しておくべきこととも思えません。「もちろん、みなさんはこれを信じなくてもいいです。でも、知っていなければなりません」

 学生たちの多くは明らかに衝撃を受けているようでした。しかし、それは自分の信じてきたものが間違っているかもしれないという衝撃ではありません。ただ単に、自分の先生がこんな迷信を信じていたのかという発見によるものでした。 中には、まだその事実(自分の先生が、迷信としか思えないことを言っている事実)を受け入れられない学生もいます。明らかに、僕が「冗談ですよ、ははは」というのを待っている顔です。どうやら、僕の前任者も、そのまた前任者も、この件には触れていなかったようです。それは、もしかしたら賢明な選択だったのかもしれませんが。

 どうしようもない重い沈黙の後、クラスが騒然となりました。どうやらこの先生は本気で進化論を信じているらしい、という事実がようやく飲み込めてきたようです。「しかし先生、コーランには・・・」

と、例のセリフが出てきます。コーランには聖書と同じような創世記があることを学生が説明します。これは非常にデリケートな部分です。「そうですか。それは知りませんでした」もちろんこれはウソです。しかしコーランと矛盾することを、それと知りながら発言することは、ここでは非常に危険だし、僕以外にも大勢の人に迷惑がかかることになります。コーランを否定することになるからです。ここでは嘘をつくしかありません。「先生、本当です。本当に書いてあるんです」

コーランに書いてることを彼らが丸飲みにしてることは、よく知られた事実です。しかし驚いてしまうのは、「コーランに書いてある」と言えばムスリム以外も説得できると彼らが信じていることです。「コーランは本当に正しいんでしょうか」と言えないこの国では、それ以上の反論はできませんから、議論を終わらせるには、確かに役に立つのですが。 しかしこの日は、僕は知らない振りをしてもう少し議論してみることにしました。「それは変ですね。コーランを誤解しているんじゃありませんか」と前置きしてから(そうしないとコーランを否定していると「誤解」されかねないので)、進化論のさわりを話してみました。つまり、進化論には化石などの証拠があることと、検証などのシステムも、完璧ではないものの、それなりに機能していること、そして何より、これらの事実をコーランが説明できないのはおかしいので、つまりコーランを誤解しているのではないか、ということです。(繰り返しますが、コーランに書いてあることの真偽を問うことはできません)

 学生側も当然反論します。彼らと話していて理解できたのは、彼らはメンデルの遺伝の法則やDNAの仕組みなどはきちんと学校で習っているのに、実は紫外線による遺伝子の突然変異についてだけは、まったく教わっていないということでした。

 確かに、突然変異なしに自然選択の原理だけでは進化論は説明できませんから、彼らの知っている知識だけでは進化論は迷信にしか見えないでしょう。突然変異なんて、世界では農作物の品種改良技術などにも積極的に応用されているぐらいの基本的な知識ですが、しかし、それを教室の中で証明することはできませんし、仮に間違って証明でもしてしまったとしたら、サウジではそれこそ大変なことになってしまいます。

 僕はそれ以上深入りするのはやめました。そして、サウジで進化論を真顔で話すとバカに見えてしまうのと同じで、実は日本でも進化論を信じていないと蔑視や嘲笑の対象になる可能性のあることだけは伝え、「日本人の世界観を信じる必要はないが、知っておく必要はある」ということを、もう一度繰り返しました。

 「日本では蔑視や嘲笑の対象になる可能性」と言うところは、実はかなり緊張を強いられる部分でしたが、幸いなことに「これだけは伝えなくては」という僕の気持ちだけは通じたようで、クラスは紛糾しませんでした。しかし、学生にとっては、僕や、僕の後ろにある日本という文化に、非常に距離感を感じてしまったのは事実のようでした。そして、その文化的な距離に衝撃を受けていたのは事実だと思います。「遠いですね」と学生の一人が僕と学生の間の距離を二本の手で示しました。

 それはもちろん僕の方も同じで、世界の始まりという、あまりにも基本的な世界観の部分で彼らとここまで違うという事実に、あらためて越えることのできないほどの距離を感じていました。「私は普通の日本人です。ムスリムではありません。でもそれで恥ずかしいとは思いません。もちろん、ムスリムも尊敬します。でも、私はこれからもムスリムになりません。」幸いなことに学生の方からも声があがりました。

「コーランにも書いてあります。他の文化の人がいますが、リスペクトしましょう。アラビア語でタアーユシュと言います」

学生の説明とは少し違う気がしましたが、タアーユシュというのが辞書には「coexistence」と出ていることを偶然に知っていたので、僕は黒板に「共存」という言葉を書きました。



 「共存」−−− はからずも僕がサウジアラビアで教えた最後の言葉が、これから彼らにとって何を意味するかは、僕にはまだ分かりません。実際にはイスラム至上主義という、まったく正反対の理想しか知らない人々がほとんどです。しかし、肝心なことは、最後に「学生の方から」この言葉が出てきたと言うことです。

 そこに一縷の希望を見いだし、「砂の国」のシリーズを終えたいと思います。



(53)までおつきあいくださった皆さん、コメントをいただいた皆さん、ありがとうございました。



    ; 1420/02/30 <1999/06/15(火)> 03:57:46
posted by 村上吉文 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このエントリーをはてなブックマークに追加
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