1998年03月20日

砂の国の日本語教育33

 「(31)一難は去った?」をアップしてから一ヶ月以上も書き込めないでおりましたが、今回はその辺の事情を書いてみたいと思います。

 モンゴルでも経験しましたし、また僕だけに限ったことでもないので特に驚きはありませんが、いわゆる「不適応期」に入ったかな、という感じです。いや、もう峠は越したのかもしれません。少なくともここにこうして書き込むことはできる訳ですから。

 ここに書くのは今も迷いがありますが、海外では頻繁に起こることだし、特にこうした負の部分を隠しておくと海外の現場の実情を伝えることにはならないので、やはり書くことにしました。

 一般に、不適応期というのは、赴任直後の目に入るものすべてが珍しい時期が終わり、新しい感動よりも「違い」そのものが煩わしく、更には苦痛に思えてしまう時期、というように言われていると思います。

 協力隊では「三ヶ月目と半年目と一年目」が厳しい時期だと言われていて、実際に僕がモンゴルで目にしたのも、ほぼその説明通りでした。特に長い冬にその時期が重なると問題が多かったようです。 計算してみると、「一難は去った」をアップしたのは、日本を出てからほぼ三ヶ月です(正確には一日足りない)。その頃、こちらのことが書けなくなったのは、やはりセオリー通りなのかもしれません(^^;)

 僕自身が不適応期というのをどのように捕らえているかといえば、おそらく、現地社会で矛盾に見えることに気がつくには充分の時間が経過し、かつ、その問題を説明しきるだけの材料を得ていない時期、という感じです。 今の僕には、まだその材料がないので、この社会は間違っているようにしか見えません。

 しかし、ここで摩擦を避けて引いてしまうと、結局、いつまでたっても不適応期からは抜けられないと思っていますので、ガンガン衝突しながらもこの社会を見て行こうと思っています。

 愚痴以外にもいろいろと書いていますが、結局ナマのままでアップすることにしました。不適応期に現地の社会がどう見えるかという一つの例としてお読み下されば幸いです。

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3/04 やっと「コンピューター番号」が登録され、旅券に書いてもらえた。これで免許も自動車の購入も可能になるはず。とは言っても車は金がなければ買えはしないが(^^;) あ、これでもしかしたらプロバイダーにも入れるのかな。だとすれば通信も楽にできるようになるな。

 旅券をあずかる大学本部の係の話によると、俺の名前はアラビア語の「強い」に聞こえるんだそうだ。厳密に言うと、何か俺の知らない単語に「?」という顔をすると「カウィーユン(強い)だよ」と言われたのだ。 しかし、さっきK先生に聞いてみたら「そんな単語は知りませんねえ」ということだった。うーむ、あれは何だったんだろう。



 ふう、やっと免許センターでの手続きが終わった。あそこに一時間いると一日分の疲れが出る。人込みがすごいし、英語の掲示なんてほとんどないし。 しかし、ハムドリッラー、何とか手続きを終えることができた。土曜日には免許ができるという。

 日本で「土曜日にできる」というと「今週中には」というニュアンスが漂うが、金曜が安息日のこの国では、「来週の始めには」という意味になる。

 K先生は足がお悪いので障害者用の駐車場(建物のすぐ隣なので歩かないで済む)を使われている。しかし、障害者のIDを駐車場係に見せても、入れてもらえないことがしばしばあるらしい。今日も「入れろ」「入れない」で一時間もかかってしまったという。 その後、免許センターに連れていっていただいたのだが、ここでも今度は俺の目の前で同じことが起こった。駐車場の警備員が入れさせないのだ。

 どうもサウジ人というのは大人になっても「弱者をいじめて楽しむ」という趣味があるようだ。正直言ってあまり尊敬できない。子どもの前でも平気でやるんだからなあ。相手の子どもの前でじゃなく、自分の子どもの前ですらそうなんだから。

 今日の免許センターでは、空いた駐車場のスペースに、ある外国人が車を入れようと切り返しをしているところに、突然サウジ人の車が割り込んで勝手にそのスペースに自分の車を入れてしまった。切り返しをしていた外国人は、もはやハンドルを切るスペースもないので立ち往生。しかもそれが道路の真ん中だったから、通行中の車も通れなくなり、あたりはクラクションの嵐。 

 その外国人はサウジ人を恨めしい顔で見ていたけど、当のサウジ人はニコニコして「え? なんか悪いことした?」と手のひらを上に開いて見せる。しかも自分の子どもの前で。

 これは価値観の違いという問題ではないと思う。



 モンゴルでは、例えば待ち合わせに二時間遅刻してきて、悪いことだと思わない人も少なからずいたけど、逆に二時間待たされてもモンゴル人は怒りはしない。だってモンゴルじゃ悪いことじゃないんだから(普通は待たされてもいいような場所で待つから)。

 日本では二時間の遅刻は礼儀にかなわないことだけど、逆にモンゴルでは二時間程度の遅刻で相手をなじるのも礼儀にかなわないことだ。 こういうのは、単なる価値観の違いとして我慢できる。こちらが相手の価値観に慣れてしまえば問題ない。自分で遅刻するようにもなるけど、待たされても平気(というか迷惑を受けない方法が分かってくる)。

 しかし、この国ではどうだろう。

 駐車場で割り込んできたあのサウジ人の「え? 何か悪いことした?」という表情には、相手が恨めしい顔をしていることへの驚きはなかった。むしろ、うれしげな顔。「してやったり」とでも言うような。 もしこれが価値観の違いだと言うなら、彼が同じことをされてもまったく不満には思わないはずだ。しかし、俺にはそうは思えないんだよなあ(だいたい、あんなクラクションの嵐を聞いて、悪いと気がつかないはずがない)。

 彼が同じことをされても不愉快に思わないなら、俺は相手を非難したくない。ただ単に俺の「悪」の定義と、彼の「悪」の定義が違うだけのことだ。フラストレーションはたまるだろうが、そういう「違い」が存在する以上は、自分の定義だけで相手を「悪」だと断じることはできない。

 しかし現実はそうではない。

 彼は、相手が嫌な思いをするのを承知で割り込んでいるのだ。しかも、最悪なのはそれを楽しんでいることだ。いや、それだけなら、まだいい。どうしても納得できないのは、その余裕。後ろめたさもなく悪びれもせず、勝ち誇ったように歩み去っていく。社会的な制裁などまったく恐れていないのが、よく分かるのだ。

 そこで、こちらの不満はこの社会の、ああいう行為を容認する文化へと向いてしまう。

 日本人の価値観の中では、平均的な日本人は悪い人ではない。モンゴル人の価値観の中でも、平均的なモンゴル人は悪い人ではない。お互いの価値観の違いが相手を悪い人のように見せてしまうことはあるにせよ、日本人の価値観が正しくてモンゴル人の価値観が間違っているなどいうことはない。それは単なる違いに過ぎない。

 しかし、サウジ人の価値観ではどうなのだろう。

 彼らの価値観でもサウジ人は悪い奴なんじゃないのか。嫌なことだと知っていながら故意にそれをするというのは、単なる価値観の違いとして割り切れる問題ではない。

 どうなんだろう。

 それでも俺は相手の文化を認めなければならないのだろうか。

 俺の海外生活4年。 何が分かるのに充分で、何を分かるには不充分なんだろう。



 K先生もF先生もマッキントッシュをお使いなのだが、プリンターのセレクターの部分が「ムンタカア」と表示されていて、これに何げなく「ナカア(選ぶ)の八形の能動分詞ですか」と聞いてしまったら、K先生は「そうです」とおっしゃるし、F先生は「いや、七形でしょう」とゆずらない(^^;) 外国人用の文法と言うのはネイティブには分かりにくいのかもしれない。それが分かっただけでも勉強になった。。

 そういえば日本人も大部分は「て形」なんて聞いたことがないだろうしなあ。



3/08

 昨日、無事に免許はとれた。しかも、仮免許でなく本物の免許だ。これで車探しに入れる。 やはり車がないとこの街では半人前だ。タクシーの通らないような場所には一人で行くことができない(帰れなくなる)

 水曜日に書いたサウジ人の悪口の読み返してみた。

 確かに、ああいうサウジ人は街でよく見かける。しかし、それが社会的に容認されていることを意味するとして社会全体を批判するのは早すぎるのではないか。 もしかしたら、彼らはサウジ人の中でも特殊な嫌な連中なのかも知れない。日本やカナダやモンゴルの街でああいう連中を見かけないのは、もしかしたらサウジでは彼らの存在が社会に容認されているからではなくて、「隠れて悪いことをする」という傾向がないだけなのではないか。嫌な奴はどこの社会にでもいる。他の社会では見えないところにしかいない連中が、ここでは隠れていない、というだけの話なのかも知れない。

 そうであってほしい。

 日本やモンゴルでは、「モラルに反すること」というのは「反社会的な行為」に近いから、悪いことをすれば村八分のような社会的な制裁が加えられるのだろう。だから「モラルに反すること」は人目をはばかる必要がある。

 しかし、この国での「モラルに反すること」は「アッラーの教えに背くこと」だ。アッラーは人前だろうと人目のないところだろうと必ず見ているわけだから、嫌な連中が人目のないところに集まる理由はない。 悪い奴に制裁を加えるのは、きっとアッラーの仕事なのだろう。嫌な連中を傍観しているほかのサウジ人は、注意も何もしないといっても、それはその行為を容認しているという意味ではなくて「ばかな奴だ。地獄へ落ちるぞ」と内心思っているのかも知れない。

 そして、子どもの前でも平気なのは教育熱心ではないからなのかもしれない。

 いや、あるいは親として子どもに願っているのは、回りの人間を踏みにじっても勝ち残ることなのかもしれない。確かに血で血を洗うような歴史を繰り広げてきたアラビア半島だから、それもありうる。 その教育のためには、わざわざ子供の前で弱いものイジメをして、その「楽しさ」を教えなくてはならないのかもしれない。



3/09 「日本語コミュニケーションゲーム80」では、例えば服装に関係する部分で女性の絵しかない。編者紹介を見ると、作ったのは全員女性だから仕方がないのかな。しかし、この国で使うには不便だ。

 アラブではエンジンの大きさ(?)を表すのに排気量ではなく気筒の数を使うらしい。

 車に乗せてもらって「これ、エンジンは何ccですか?」と聞いても知らない人のほうが多いし、そこで「何シリンダーです」と返事をもらうことも多い。

 そこでつい言ってしまいそうな言葉。「なんだって? 気筒の数じゃ排気量を表せないじゃないか!」。

 で、言い返されそうな言葉。「何だって?排気量じゃ気筒の数が表せないじゃないか!」

 しかし、少なくともオートバイに関しては単気筒でも限定解除が必要なものがある。

 排気量では一度に燃やせるガソリンの量が分かるから、排気量が二倍になればエネルギーも二倍になるだろう。とすれば、排気量では使うエネルギーの量(1サイクルあたりの)が表せる。 でも、気筒数では何が表せるのだろう。オートバイだったらマルチエンジンとシングルエンジンでは「乗り心地」が違うなあ。確かに気筒数が多いと高回転のフケがいいという面はある。でも、それがアラブでは排気量より大切なのだろうか。



3/17

 昨日は熱を出して寝込んでしまった。 今日は学校に来ているけど、まだ嫌な汗がでるし、震えも止まっていない。これはストレスが肉体的に表れているのだろうか。



3/18

 研究室で仕事をしていると、一人のサウジ人が入ってきて、名前も名乗らずに「いったい日本の経済はどうしてだめなんだ。いつもいつも円のレートは下がってばかりじゃないか」と言い始めた。失礼な人間はどこの国にもいるものだ。 さすがにムッとして「70年代までは1ドル360円だったんだ」というと、なぜか「そうか、それは素晴らしい。しかもそんな数字を知っているなんてすごいな」「日本人なら誰でも知ってる」「いやいや、素晴らしい。あなたの貴重な時間をかけてくれてありがとう」と急に手のひらを返したように紳士的になりはじめた。どうなってるんだか。

 1ドル=1円という時代があったことなんか言わなくて正解だったかな(^^;)



posted by 村上吉文 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このエントリーをはてなブックマークに追加
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