1997年12月13日

砂の国の日本語教育17

 第1レベルの会話の授業では、モデル会話を暗誦できるまでやっているんですが、驚いたのは、なかなか飲み込みが速いこと。しかも、次の時間でもちゃんと覚えています。

 なんだ、けっこう優秀じゃないか、と感心していたのですが、しかし、何日かするとどうも様子がおかしいことに気が付きました。応用の会話が全然うまく行かないし、暗誦にしても会話の流れを考えれば絶対にありえないような間違いがときどきあるのです。

 おかしい。

 もしかしたら・・・彼らは意味が分かってないんじゃないか。

 そこで、試しにアラビア語を使ってみることにしました。それまでは100%日本語だけで通そうと思っていたのですが、一番優秀な学生にアラビア語で言わせて、それを残りの学生が日本語で言う、という練習をしてみました。 まず、ここで驚いたのは、その優秀な学生のアラビア語です。言っていることは例えば「お名前は?」「ムハンマドです」という程度の簡単なことなのですが、朗々と読み上げる、その流麗さ。日本人の朗読とは、まったく違う文化です。いや、ただ単に「違う」というだけではアラビア文化に対して失礼なぐらい、それは高度に洗練されたものでした。

 しかし・・・

 続けて残りの学生が該当する日本語を言うのですが、これがまったく自信なさげな情けない話し方なのです。特に間違っているわけでもないのに。 やっぱり・・・

 まあ、全然分かっていないわけではないんですが、しかし暗誦するときにそれほど意味を考えていないことだけは分かりました。うーむ。

 で、つい昨日のことなのですが、例の親日家のアリーと話をしていて、思い当たることがありました。 アラビア諸国では、コーランの暗誦というのが非常に重視されていて、特にコーラン全部を暗誦できる人は特別に「ハーフィズ」という呼び方までされて尊敬されるのだそうです。そして、幼稚園のときから歌を覚えるようにコーランを暗誦していくのだとか。 したがってアラビア人は普通、言葉を暗誦するということにかけては、子どものときからトレーニングを受けているので、他の文化の学生に比べて覚えが早いのだということ。しかし、コーランのアラビア語は芸術性が高いために、音を覚えるだけで一つの価値を持ってしまうこと。(ここで僕は「つまり意味を考えないわけだろ」と意地悪な質問をしたところ、彼はしぶしぶ「そういう一面もある」と認めました) そして、自分の暗誦したコーランを披露する機会が多く、朗誦文化とも言えるものが発達していること。

 いや、まさに教室での学生の不可解な振る舞いを、ぴたりと説明できるバックグランドがあったわけです。

 そう言えばコーランという言葉自体、「朗誦する」という意味の「カラア」の派生形です。やっぱり、もとからそういうものだったんですね。

posted by 村上吉文 at 07:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このエントリーをはてなブックマークに追加
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