2010年12月25日

『デジタル教育は日本を滅ぼす』わけがない

この本、非常に参考になりました。また、同時に非常に勇気づけられました。というのも、教育のIT化に反対している人のレベルがあまりにも低いことが明示されているからです。


【教師や学校の役割は、問題を解く、正解を出すという作業だけなのか?】

著者の田原総一朗氏はデジタル教科書について、まず以下のように批判しています。
 音楽も聴けるし、算数の解き方もレベルにあわせて音声で解説してくれるだろう。それでもまだ分からないことがあったら、検索すればよい。たとえば「伊藤博文がどういう人か」「アメリカってどんな国か」ということが、その場で検索することができるのだ。
 つまり、問題を解く、正解を出すという作業が自己完結してしまうのである。これは便利で効率がよい。だが実はそのことこそが問題なのである。学校へ何をしに行くのか、教師とは何をする存在なのか。ネットの上で自己完結することにより、教師も学校もいらなくなってしまうのである。

もうこの短い引用の中だけでもいくつもの矛盾や誤解があるので、どこから批判すればいいのか分からないほどです。

まず、田原氏は別の部分では「日本の教育は正解を与えることしかしない」と批判しておきながら、上記の引用では、田原氏自身が「教師も学校もいらなくなってしまう」として、教師や学校の存在意義を「問題を解く、正解を出すという作業」にしか見いだせていません。

また、「問題を解く、正解を出すという作業が自己完結してしまう」というだけで「教師も学校もいらなくなってしまう」のなら、デジタル教科書以前に「図書館」があるだけで「教師も学校もいらなくなってしまう」ことになってしまっているでしょう。図書館だけで小学校レベルの「正解」は見つけられるでしょうから。

しかし、いまどき日本ではこんなレベルの低い授業しかしていないんでしょうか。

僕の専門は日本語教育ですが、まだ教壇に立つ前の学生ですら、こいった「知識を与える段階」が教育の一部分にすぎないことを知っています。僕自身だって二十年前にそのように教わったし、また、現在僕が担当する養成講座でもそのように教えています。

知識だけ与えれば教育が成立するなどという考えは、外国語教育の世界では戦前で終わっていたと言っていいいいのではないでしょうか。戦後はオーディオ・リンガル・メソッドに続いてコミュニカティブ・アプローチなどが盛んになりましたが、これらはいずれも「分かっているだけじゃ話せない」という基本的な認識を共有しています。

考えてみればすぐに分かります。田原氏は「伊藤博文」とか「アメリカという国」という例を出してデジタル教科書が優位な分野だけを話題にしていますが、たとえば数学では「問題を解く、正解を出す」だけなら電卓があればすみます。

では、電卓を小学生に渡せば数学の教育は終わるのか? あるいは、電子辞書を渡せば語学教育は終わるのか?

それでよければ、私たちの仕事もこんなに楽なことはありません。

少なくとも語学教育の分野では、文法や単語の意味などの知識を導入する部分は、デジタル教科書だけでかなりの部分ができるでしょう。「dog = 犬」と文字で教えるよりはさまざまな犬の鮮明な写真や動画、鳴き声の音声などを使うことができれば、今までより、はるかにインパクトのある導入ができます。また、単語帳を繰り返しめくって記憶するような機械的練習でも、デジタル教科書はかなり強力なツールになると思います。

でも、デジタル教科書にできるのはそこまで。日本語教育の世界では「応用練習」などと言うことが多いですが、情報差のある学習者同士で行う練習(たとえばロールプレイなど)は実際の人間同士の練習でないと、少なくとも今の技術では無理です。

もちろん、デジタル教科書では微妙に内容の違うロールカードを大量に作って表示するようなことも可能になりますから、デジタル教科書が普及すれば練習の幅もずっと広がるし、その準備も楽になるでしょう。しかし、あくまでも人間同士の練習の補助として役に立つのであって、その代替が可能になるわけではありません。

要は、教育にはデジタルでやった方がいいところと、アナログでやった方がいいところがあり、それを使い分けることが重要なのだということです。この点については、大分県で情報教育、ICTを活用した授業の研究や相談に取り組んでいるy-mochizukiさんも以下のように言っており、私も同感です。
誤解が多いのは、ICTの活用は1時間を通して行う、と思われていることです。次のPCを使う例でも、1時間中使う理由はありません。
http://twitter.com/#!/y_mochizuki/status/18072088698949632

ちなみに、最近読んだ『Brave New Digital Classroom: Technology and Foreign Language Learning』という本でも、著者のRobert J. Blakeは「技術は教師の代替になるか」という問いに対して以下のように答えています。
A rational response to this question might be that technology will not replace teachers in the future, but rather teachers who use technology will replace who do not.



【ネットでなければ、コミュニケーションできない日本人が増殖?】

さて、田原氏のデジタル教科書への批判としては、上記の「問題を解く、正解を出すという作業が自己完結することにより、教師も学校もいらなくなってしまう」ということの他には、もう一点しかありません。

それは、「ネットでなければ、コミュニケーションできない日本人が増殖」という点です。これに関しては否定しません。だってネットがない時代に「ネットでなければ、コミュニケーションできない日本人」が一人もいなかったのは当然ですから。しかし、ネット以前は「そもそも他者とコミュニケーションできない」という対人恐怖症の人はいなかったのでしたっけね。そういう人たちはネットがなかったので誰ともコミュニケーションできなかったわけです。「誰ともコミュニケーションできない日本人」たちが「ネットでなければ、コミュニケーションできない日本人」に変化しているのだとしたら、それは歓迎すべきことなのではありませんか?

いわゆる「三丁目の夕日」史観な人たちは「ネット以前はそんなコミュニケーション不全は日本になかった」とかよく言いますが、これも完全に間違いです。対人恐怖症というのは日本の伝統であり、海外でもそのまま"taijin kyoufu shou"とか、その略語の「TKS」して通用するぐらいなのです。資料を二つほど紹介します。
The essential feature of a social phobia is a marked and persistent fear of social or performance situations in which embarrassment may occur, and there are many different forms of this condition which manifest uniquely in different environments. One type of social phobia, occurring primarily in Japanese culture, is called Taijin Kyofusho and is translated as "the disorder of fear."
http://www.brainphysics.com/taijin-kyofusho.php

Taijin kyofusho (対人恐怖症 taijin kyōfushō, TKS, for taijin kyofusho symptoms), is a Japanese culture-specific syndrome. The term taijin kyofusho literally means the disorder (sho) of fear (kyofu) of interpersonal relations (taijin). Dr. Shoma Morita described the condition as vicious cycle of self examination and reproach which can occur in people of hypochondriacal temperament.
http://en.wikipedia.org/wiki/Taijin_kyofusho

対人恐怖症(たいじんきょうふしょう)は、恐怖症のひとつであり、患者は社会的接触を恐れ、それを避けようとする症状を示す。また、その結果として、社会的生活に支障をきたしたり、生活において必要な人間関係の構築が十分できなくなったりする。日本特有の文化依存症候群とされ、そのままTaijin kyofusho symptoms (TKS) と呼称されている。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E4%BA%BA%E6%81%90%E6%80%96%E7%97%87

二番目の資料に出てくる森田博士というのは1938年に亡くなっているので、どう考えてもネットの影響を分析したとは考えられません。

繰り返しますが、コミュニケーションが苦手な人が多いのは「日本の伝統」なのであって、デジタル時代の日本人の病理なのではありません。まあ、もしかしたら老害たちが「増殖中」などと書くのは、実感としては嘘ではないのかもしれません。しかしそれは、そもそもそういう人たちが人の目に触れることを嫌うので、気がつかなかったというだけのことでしょう。

その一方で、隣の席の人ともメールやチャットなどでやりとりする一般人が増えているとは思います。ただ、これに関しては、以前、「デジタルネイティブとデジタル移民の見分け方 その一」という記事に書いたので繰り返しませんが、ネットで伝えた方がいい内容と対面で伝えた方がいい内容があるというだけの話ではないでしょうか。長いURLや重要なメールアドレスなど、デジタルデータで渡さなければならない内容を口頭で伝えようとすることこそ、現代のコミュニケーション方法としては非効率であり、はっきり言うと間違いだと思います。

ということで、田原氏の「デジタル教育は日本を滅ぼす」に出てくるデジタル教科書などへの批判は、二点ともまったく的はずれだと言うことができると思います。

この本の中身は、その他は終戦の日の思い出など、デジタル教育に全く関連のない話ばかりです。教育そのものには多少の関心があるようですが、蔭山メソッドの紹介とか、杉並区立和田中学校の藤原校長とか、教育関係者なら知っていることばかりしか出てきません。しかも、わざわざインタビューまでしているのに、蔭山氏や藤原氏がデジタル教科書についてどう考えているのかなどの記述もありません。(それにしても、『デジタル教育は日本を滅ぼす』という本で、日本の教育界では著名人である両氏に、本題とは全然関係のないインタビューするというのはジャーナリストとしてどうなんでしょうか。)

さて、この手の本としては、もう一冊、有名な本があります。『デジタル教科書はいらない』(田中真紀子・外山滋比古)というのですが、これも以下のリンクを見ると読む価値がなさそうです。
http://togetter.com/li/58641








posted by 村上吉文 at 16:50 | Comment(1) | TrackBack(0) | 書評 | このエントリーをはてなブックマークに追加
この記事へのコメント
私も同意見ですが、観点が少し違います。田原氏は、新聞や出版業界の破壊につながるものだと考えているのだと思いますよ。それと今までのメディアがやりにくくなるのが、ICT化なのです。ニュースを書いたときその真偽がすぐわかってします可能性を含んでいるからです。そんなところを思って書いているまたは、書かされているような気もしています。
 今後は、間違いなくペーパレスの時代にはいいていくと思っています。環境にもいいし!。
Posted by Susumu Nakatani at 2011年01月06日 22:07
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