「何かを表現したって誰にも届かない」という諦観は、「何かを表現すれば、それを必要とする誰かにきっと届くはず」という希望に変わろうとしている。
梅田望夫『ウェブ進化論』
この文章が書かれたのは2006年のことでした。今では「希望」ではなく「確信」になっているように思います。世界には情報を必要としている人が発信している人よりも多く存在する。そして、検索エンジンの精度はどんどん高くなっていきます。ということは、必要な情報を公開すれば、必ず誰かの役に立つことができるのです。そんなことは自分でブログを開いてみて、アクセスログを見てみればすぐに分かります。このブログにも、本当にいろいろなキーワードで検索してやってくる人がいます。
ところが、そのことを肌で感じている人とそうでない人の間には、ずいぶん大きな違いがあるようです。
僕がよく聞かれるのは、「あなたはなぜわざわざ公開するのか」という質問。僕には、この「わざわざ」が理解できない。なぜなら、僕にとっては多少なりとも価値のある仕事をしたと思ったら公開することがデフォルトであり、わざわざ鍵をかけて閉じ込めておくことにこそ意味を感じられません。
そう。公開しないことこそ、「わざわざ」なのです。
いえ、もちろん、競合の厳しい民間の方でしたら、理解できます。コストと時間をかけてきたノウハウを無料で公開しろなんて無茶なことは私も言いません。そんな権利もありません。たぶん公開した方がお客さんが増えて得なんじゃないかと思うこともありますが、それはご本人が決めればいいことです。
でも、公立学校の先生とか、お役所の人とか、そういうところから「なぜわざわざ公開?」なんて聞かれると、ホントにガクッときちゃいますね。そしてこちらから聞き返したくなります。「人のために作ったものをなぜわざわざ隠すのか」と。
上に書いたように、公開すればそれを必要としている誰かを必ず助けることができるということは、僕のようにブログを書いている人間には当たり前の現実です。
そういう人間にとって、ここまで技術的な障壁がなくなった現在、仕事の成果などをオンラインで公開しないということは、助けられるはずの誰かを助けないという選択を積極的にしているように見えてしまうのです。「積極的には助けられない」という消極的な態度なのではなく「助けない」という積極的な意思表明をしているように見えてしまうんですよね。
「こんなすごい教材を作った」とか論文で書いておいて、その教材がオンラインでは非公開だったりすることもあります。いったい何のための論文なんでしょう。そもそも論文自体オンラインでは読めないような学会も実在しますしね。
でも、デジタルネイティブたちがもう少し社会の中心になってきたら、社会も一気に変わることでしょう。そんな時代はもうそれほど遠くないんじゃないかと思います。
【参考】
「すべてを公開しながら生きる生き方, それがふつうだと思おう」
http://jp.techcrunch.com/archives/20091230we-all-live-in-public/
タグ:デジタルネイティブ



以前、ある膨大な日本語関係のデータを集めている方に、「データを公開する予定はあるのか」と聞いたところ、「あんた、それを利用しようなんて、虫のいいことを言うな」みたいなことを言われ、悲しく感じたことがあります。そのデータがボランティアで集められているにも関わらず、です(商用ならばわかります)。そして、残念ながら、集められたデータは、xmlなどの再利用可能なフォーマットとして保存されていなく、情報提供した方すら、自分のデータとしてアクセスできないそうです…
まあ、それは兎も角、僕も自分のサイトに関して、「どうして無料で公開するのか」という質問をずっとされてきました。勿論、その答えは想像できると思います。
ただ、残念なのが、(無料で)一般公開されているオリジナルのサイトなどが、業界ではまだまだ評価されていないように感じます。それよりも、プロジェクトを紹介したり、既存のツールやアプリケーションを使った実践紹介などの一本の論文、発表の方が評価されているような気が。できれば、サイト単体の仕事でもっと評価してもらいたいですね。
あと、自分のことで、公開していないものも山ほどありますが、ただ、公開するのが面倒くさいっていうのはありますね(笑)。公開しない方が面倒くさいっていう仕事のしかたをすればいいんでしょうけど。
いますねー、こういう人。そういう人がどうして研究というものをやりたいのか、理解できません。引用してもらったほうがずっと得だと思うんですけどね。
それとも、研究者の中にも引用元を示さずに自分の成果みたいに発表する人っているのかなあ。