2008年07月22日

数字で実証されている「好きを貫け」の効果

梅田望夫さんの「好きを貫け」は、あまりにも反響が大きくなってしまったからか、いろいろ反論も出てきてはいます。

反論の多くは抽象的な主張に終始しているので、好きを貫くと幸せになれるのか、客観的な数字を見てみましょう。たとえばなぜ、この人たちは金持ちになったのか - 億万長者が教える成功の秘訣」という本(いかにも金持ちじゃない人が読みそうなタイトルですが)は、 全米の純資産100万ドル以上(およそ1億2000万円以上)の億万長者1000人に直接面接して調査した結果をまとめた本ですが、ここにもこんな文章があります。
仕事に対する愛情を経済的成功の根本的要因と考えるミリオネアの割合となると、数字は一気に80%に跳ね上がる。(p.184)
好きを貫くと間違いなくお金持ちになれるなんていう保証はありませんけど、少なくともその可能性が高くなるのは間違いなさそうです。

さて、梅田さんの「好きを貫け」の元のタイトルは「直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。」なんですが、この「直感」も「なぜ、この人たちは金持ちになったのか - 億万長者が教える成功の秘訣」に出てきていますので、引用します。
全体の約四割もの億万長者が、自分にあった職業が見つかったのは、直感が働いたからだと答えているのだ。p.181
ちなみに、182ページの表を見ると、順位としても「億万長者の職業発見要因」の第一位が「直感に導かれて」になっています。二位は「その事業の利益率を調査して」という、いかにも客観的なデータの利用ですが、それ以上に直感が重要だったと考えている人が多いのは参考になります。

この本には他にも梅田望夫さんを彷彿とさせる事実がたくさん出てきます。たとえば『ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書 687)』に出てくる「けものみち」と「高く険しい道」ですが、以下の部分なんて、まさにこの二つの生き方のことではないかと思います。
リチャード氏はキャリアの選択に「敷かれたルール」の存在を指摘する。医師や弁護士、公認会計士といった社会的ステータスの高い職業にはそれぞれに養成機関があって、優秀な学生はそのレールに乗り、誘導されるがままに職業に就くというのだ。だが、リチャード氏タイプの億万長者は自分で進むべき道を切り拓く。彼らはそれまでになかった新しいユニークな事業を考え出す。そのため利益は非常に大きく、競争相手もいないのである。
p.194
その上で、「高く険しい道」には優秀な競争相手が多いので、競争に勝つ確率も極端に低くなるという考えも示していました。

ところで、日本語教育の世界では、ここで紹介したような「金持ち」などの言葉が入った本って、どうも受けが悪いですよね。今回のエントリーも、「うわ、村上さんってこんな本読んでるの?」とか白い目で見られそうで、何となく居心地が悪いです。

その一方、日本語教師を辞めていく人のほとんどが、その背景に経済的な理由をかかえているのではないかと思います。分からないこともありません。私も含め、日本語教師はいつの間にか清貧思想に強く影響されていたりする人が多いようですから。

この矛盾って何なんでしょうね。




この記事へのコメント
「好きを貫け」の「反論」という文章を読んで感じたことなんですが、確かに毎日ステーキを食べる生活はその内ステーキにも飽きが来るのかもしれません。

しかし、毎日ステーキを食べている中でも「明日はもっと旨くて上等なステーキを喰うぞ」と思っていればどうでしょうか。個人的には、その日喰う不味いステーキも明日へのステップと考えれば、喰い続けることができるような気がします。

私も「好きなことを仕事にしたい」タイプなのですが、最近「「好き」を仕事にするためには上昇指向が無いとダメだなぁ。」と思うんです。

もっといい職場環境につきたいとか、責任ある立場につきたいとか、同期を追い越したいとか・・・。

そういう指向性というか、高い目標設定とかを持っていないと「毎日飽き飽きしながらステーキを喰う状態」に陥るんじゃないかなぁという気がします。

スティーブジョブスだって多分むちゃくちゃ上昇指向の高い超利己主義人間なんだと思います。
彼らみたいなお金持ちのそういった性格は生来のものなんで、敢えて「利己主義たれ」なんて言わないんでしょう。たぶん。

日本語教師は「好き」で始める人が多いと思います。「日本語教師になれた!」というので満足していれば、必ず後でやりがいを見失うときが来るはずです。

今 非常勤だったら将来常勤になる、今常勤だったら主任になる・・・とか、青年海外協力隊は経験したから次はジュニア専門家に・・・とか、常に自分なりに目標設定して、目標を達成するために努力してゆかなければならないのかなぁと思います。

そうやって先へ先へと進んでゆけば、いつかはお給料もそれなりになってゆくんじゃないでしょうか。

「上まで上り詰められるのって、ごく一部の人じゃん」って思われるかも知れませんけど、「好き」を商売にするっていうのはそういう厳しい世界なんです。たぶん。

ちなみに私は早くも熾烈な日本語教師ラット・レースから脱落しそうで、自分に必死に鞭打ってがんばっています。(涙)
Posted by MSD at 2008年07月25日 00:02
反論(?)を読んで良く分からないのが、どうして食べる側、つまり受け手の視点になっているんだろうということです。ステーキを出して例えるなら、ステーキを提供する方の立場に例えるべきだと思うんです。毎日、客にステーキを出すことが楽しいと思えるかどうか。数ある料理の中からステーキを選んで、それを客に出してお金を貰って、そのお金を自由に使うことができるわけなので、受け手のたとえ話は無理がある気がしました。むしろ、受け手として理解してしまっていることが、逆に自分を追い詰めるんじゃないかと思ってしまいます。仕事を選ぶって、もっと能動的なことだろうと…。


で、客にしてみれば、ステーキを焼く技術があって、材料へのこだわり(信念)もあって、値段も良心的な店で食べたいってことじゃないでしょうか。そういう店はだいたいステーキのことが好きなんだと思います。別にステーキが嫌いでも、美味しくて安全で良心的価格でステーキを出してくれるなら食べたいと思います。
Posted by ようすけ at 2008年07月26日 13:39
MSDさん、ようすけさん、それからメールでコメントをくれた方、ありがとうございます。

まずステーキの件なんですが、あの文章を読んで思ったのは、「いつか飽きてしまうなら、それは本当の意味では好きではないんじゃないか」ということでした。ご飯やみそ汁のように毎日口にしていても飽きないものこそ、本当の意味で好きなんですよね。海外にいくとよく分かります。

逆に、昔カナダに住んでいたときは毎日ステーキばかり食べるような人もたくさんいました。そういう人だって実際にいるんですから、「毎日食べさせられたら拷問だ」という結論自体、ステーキを本当は好きじゃない人に限定していますよね。

ということで、反論の比喩としては微妙に論点をずらしているように思えました。意図的かどうかは分かりませんが。

私も、最初の基金の専門家の仕事をやったときは、当面の目標に達してしまった上に、日本語の需要もあまりない国だったので、五月病というか、やりがいが見つけられなかった頃がありました。その後のモンゴルでは完全燃焼できた実感があったんですが。

仕事としてサービスを提供する立場の視点こそ大切というご指摘も、全くその通りですよね。「あそこはウケが悪かったな」とか「こうすればもっとウケるんじゃないか」とか、そういうことを考え続けるエネルギーっていうのは、やっぱり好きじゃないと、勝負が決まるレベルまでは出てこないと思うんですよね。

Posted by 村上吉文 at 2008年07月27日 05:25
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